「証人としての記憶」2021年3月 羅府新報 掲載
「証人としての記憶」2021年3月 羅府新報のために執筆したコラムです。
南キリスト教教会連合 羅府新報掲載
「証人としての記憶」
どんな災害も時間が経過すると、記憶や教訓は薄れていく。出来事の直接的な当事者でなければ、尚更のことだろう。3月11日、2011年の東日本大震災から10年。私たちは何を教訓として覚えるだろうか。
聖書の中には、民族としての記憶がある。各個人としての幸不幸、生死を越えて、神の物語を運ぶ。
もしも、私たちが個人単位で得た経験と知識だけで生きれば、長く生きることは難しいだろう。まともに火も起こせず、早々と病死でもするのではないだろうか。私たちの生活はふんだんに、私たち以前に生きた人たちの経験と技術に支えられている。
霊的な意味でも、私たちは個人の信仰だけではなく、先人が蓄積した霊的遺産の恩恵を受けて生きている。アブラハムに約束された神の契約は、人類全体が祝福を受けるための道を開いた。また、ユダヤ人の何千年にもわたるトライ&エラーの集大成、聖書が私たちに神を教えている。
聖書は私たちの世界を、霊的な視点をもって生きることを教えている。
「進歩のない者は決して勝たない
負けて目覚めることが最上の道だ
日本は進歩ということを軽んじすぎた
私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか(中略)
俺たちはその先導になるのだ
吉田満『戦艦大和ノ最期』
日本の新生にさきがけて散る
まさに本望じゃないか」
戦艦大和の哨戒長、臼淵磐大尉の言葉として記録されている。吉田満の創作であるとも言われているが、著者自身が戦艦大和からの生還者であり、無数の仲間達の死を経験した、彼なりの犠牲の解釈だったのかもしれない。
戦艦大和は第二次世界大戦戦争末期にアメリカ軍の本土上陸を防ぐため、沖縄に向けて出撃、米軍から爆撃を受け沈没した。戦艦自体を座礁させ砲台とし、乗組員にはそのまま陸戦隊として突入を命じる片道切符の特攻攻撃だった。
命令を受けた乗組員達の間では毎日、何のために自分たちの命は特攻攻撃に費やされるのかという議論が続いたと記録されている。一人一人の大切な命、愛する人たちを後にして、予想される死に何らかの意味を見出すため、乗組員の間では言葉では尽くせない苦しみがあったのだろう。
先の言葉を心に留めると、東日本大震災は霊的にどういう意味を持つだろうか。目覚めるということ、進歩ということ、救われるということ、新生するとは。
復興は進む。災害対策のスキルも向上するだろう。霊的にはどうだろうか。日本の社会は何か学んだだろうか。人の命はいつ無くなるとも知れず、私たちが人生をかけて積み上げた努力も肩書も、コミュニティも、家族も、一瞬で消え去る世界に生きていることについて、何か在り方は変わっただろうか。
私たちは有限を越える存在と、自分の存在の永遠的な意味を、世界に伝えているだろうか。神に愛され、霊的遺産を受け継ぐキリスト者だからこそ、現わせる世界というものがあるのではないだろうか。
証人としての東日本大震災の記憶。震災で失われた命による教訓は私たちの手の中にある。永遠の意味を、見つけることは出来るだろうか。
ソウルケアミニストリー代表/ガーデナ平原バプテスト教会会員
池田モース優美
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