「ままならぬ耐性」2024年11月 羅府新報 掲載
「ままならぬ耐性」2024年11月 羅府新報のために執筆したコラムです。 南キリスト教教会連合 羅府新報掲載 掲載日: 2024年10月31日 ままならぬ耐性 イタリアンレストランに行った。英語なのかイタリア語なのか、良くわからない名前が並ぶメニューから、チキンソテーの文字を見つけ、美味しそうだと思い注文した。 頭の中では、塩味とハーブの効いたチキンが真ん中に乗せられている料理を想像した。ところが出てきた料理は、鶏肉と野菜の炒め物だった。茶色いパプリカと玉ねぎに混ざり込んだ鶏肉が、小さくて見つからない。期待したものと違う。 アメリカでの生活は、私にとってこのような「チキンソテー」だった。計画通りに進まない、電話は繋がらない、注文と違う品が届く、心臓に悪い通知を受け取る。 そして、大きな教訓を学んだ。物事が自分の想定通りに進むはずであるという、前提が間違っていたのだと。日本人の前提に生きすぎていた。 ままならぬ時に、人は神に会う。 「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」マタイ5:3 病気の人、貧しい人、悩みのある人、そんな人達にとって、欲しいものは「天の国」ではなく、病の癒やし、今月の家賃、愛情など地上のものかもしれない。 願いが叶うこともある、叶わないこともある。どちらであっても、神は人の願いが叶うこと以上に、大切なことがあることを教えてくれる。 自由、平和、私の幸せや、愛する人の命よりも大切なことがあるのだろうか。 ある人がいた。彼の母親は彼が幼い時に家を出ていった。彼は一生懸命、母親が家に帰ってきてくれるように、と神に祈った。心に深い寂しさを抱えたまま、彼は成長し、結婚し、子どもが生まれ家庭をもった。時は過ぎたが、母は帰ってこなかった。 大人になった彼はクリスチャンだが、祈ることはなく、神を信頼していない。自分が一番助けを必要とした時に、沈黙した神を許すことが出来ないからだ。神に何かを期待すれば、心が焼けるような悲しみを、再び味わうかも知れない。 母は帰ってこない、願いが叶わない。人生のチキンソテーを見つめる。 人の悲しみや苦しみに対して、誰にでも解決策となるような説明や答えは、ないと思う。人にはそれぞれの痛みがあり、答えは与えられるものではなく、その人の心に生まれるもの。 不思議なことだが、ままならぬことのほうが、沢山のことを教えてくれる。すぐに答えは出ないけれど、少しずつ自分自身の視点が変わる。 チキンソテーを前に、この世界が間違っていると怒ることも自由だが、私は違う生き方を選択することが出来る。人生は思う通りに進まなくていいのだ。 人生で学ぶべきことは、思い通りの人生で幸せを得ることではなく、思い通りにならないことを通して、神を、永遠を、理解していくこと。ままならぬことの一つ一つが、私たちを天の国に連れて行く。 この世界は永遠を学ぶための練習場。思ったようには進まないが、思った以上のことを教えられ、思ったよりも、ずっと多くの人たちが周りにいることを知る。 ままならぬ耐性を身につける。沢山のチキンソテーを出してくれるアメリカは、いいところですね。 池田モース優美 セカンドレベルミニストリー/ソウルケア代表 ※ 他の投稿者の方々のコラムはこちらの南加連合のウェブサイトから読むことが出来ます。
『 百万人の福音 BIBLE&LIFE』「神のかたち」で生きる霊性入門 12月ー世界に拒絶されている
いのちのことば社『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』にて2023年1月から1年間連載を担当しました。 連載タイトルは、「神のかたち」で生きる霊性入門いのちのことば社様から許可をいただきまして掲載いたします。『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』は様々な執筆者の方々の有益な記事や情報が満載です。最新号にてぜひお買い求めください! ※掲載された記事については、PDFの記事を御覧ください。下記は編集前の原文です。紙面の都合上省略された文章が原文には含まれています。編集者の方の尽力によって読みやすくなった文章、また原文のままの文章もどちらも、楽しんで頂けるかと思い、両方を残してあります。 世界に拒絶されている この1年間「神のかたち」を自分自身の生き方に形作る、というテーマで執筆させていただいたことを心から感謝しています。シリーズの最後に、どのような内容が良いだろうかと思い巡らせながら、今回のテーマを選びました。皆さんにとって、なにか前進するきっかけになりますように。 もやもや 数ヶ月前から、目の前に影のようなものがちらつくようになりました。飛蚊症です。知り合いの先生に相談したところ、加齢からくるもので、じきに慣れる。気にしなくてよい、と言われました。そんな年齢になったのか、と気にするところはありますが、慣れるよりほかありません。 今年9月、私はクリスマスカードを注文するため、いくつかの印刷会社のホームページを開いていました。クリスマスの挨拶は、私のミッション活動の報告を兼ねており、数が多いため印刷会社に注文しています。 印刷会社が提示するテンプレートをスクロールするたびに、心の底からもやもやとした何かが湧き上がってきました。まるで視界の端に飛び込んでくる飛蚊症の影のようです。視界の中の黒いゴミの影は目で追うと、まさに飛び回る蚊のようで、イライラします。同じように、心の中のもやもやも、沈殿していた池の底の泥が湧き上がるような、非常に不愉快な感覚でした。 世界は私の場所か この泥は、ずっと私の人生の中に沈殿していました。何回か、霊的同伴者に相談した後、その泥の名前は怒りであり、「拒絶」である、ということが分かりました。 クリスマスカードの見本には、幸せそうな家族が並んでいます。美しい家、豊かな生活、愛情深い両親、笑顔の子供、旅行、贈り物…「幸せ」の展示場。 そして、私はどれも持っていませんでした。自分の現実と、テレビで見る普通の家族と生活、どちらが尋常ではないのか、子供の私には分かりませんでした。確かなことは、正解を知ったとしても、自分の苦しみが増すということでした。 「何に怒っていますか?」と霊的同伴者が尋ねたので、私はしばらく考えて「世界に…全てに」と答えました。 招かれざる者 有名なクリスチャン作家であるLysa Terkeurstは「拒絶」をテーマに "Uninvited(招かれざる者)"という本を記しています。彼女は人生を通じて、彼女を恐れさせ、凍りつかせてきた心の感覚は「拒絶」であると綴っています。「拒絶」は彼女がまだ子供の頃に父親が、家を去っていったことから始まる感覚でした。 「私の顔も見ずに荷物をまとめる父を見て、私の安心感とアイデンティティを支えていた最後の一片が割れた。…拒絶感は私の心の奥底に沈み込んだ。そして、私はある結論に達した。「(中略)お父さんにとって私は何の価値もない」。さらに、次のような結論に結びついた。「私は神にとって何の価値もないのではないか」これらの感覚が、私の新しいアイデンティティとなったのです。」引用"Uninvited"Ch.3 TerKeurst, L. (2016). Ch.3 There’s a Lady at the Gym Who Hates Me. In Uninvited: Living loved when you feel less than, left out, and lonely. essay, Nelson […]
『 百万人の福音 BIBLE&LIFE』「神のかたち」で生きる霊性入門 11月ー信仰は視力となり
いのちのことば社『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』にて2023年1月から1年間連載を担当しました。 連載タイトルは、「神のかたち」で生きる霊性入門いのちのことば社様から許可をいただきまして掲載いたします。『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』は様々な執筆者の方々の有益な記事や情報が満載です。最新号にてぜひお買い求めください! ※掲載された記事については、PDFの記事を御覧ください。下記は編集前の原文です。紙面の都合上省略された文章が原文には含まれています。編集者の方の尽力によって読みやすくなった文章、また原文のままの文章もどちらも、楽しんで頂けるかと思い、両方を残してあります。 信仰は視力となり 「神のかたち」を自分自身の生活の中に形作る、というテーマでお届けしています。 私たちの問題 ある日、乳がんを患った方が来られました。片方の乳房を部分的に除去したため、胸に義肢装具をつけているとのことでした。義肢装具とは義足や義手と同じように、病気や怪我で欠損した体の部位を補うためのものです。 「鏡で自分の胸が欠けている姿を見ると、自分でなくなったような気がするんです。どう表現していいか、わからないんですが、受け入れることが出来ないんです。」 欠けた部分というのは、物理的にも、精神的にも、多くの意味があるでしょう。 体の一部分がなくなりました。見た目が服で隠れているとしても、これまで出来ていたことが、出来なくなったかもしれません。機能を失いました。可能性を失いました。 欠けた肉体は再生できません。失うという痛みがあります。もう戻らない、再生されない。私達の肉体の終わりを思わせる、暗いサインでもあるでしょう。 彼女との会話で、この話は私達人間、全ての話だと思いました。障害、病気、事故、老化。遅かれ早かれ、私たちの健康は失われ、体の機能は衰えていきます。 人間は塵で作られている、と聖書は言います。私たちも世界も、海辺に作った砂山のように、変化し崩れる。しかし、失いながら生きていくことは、ただ死に向かうだけの旅ではない。その過程に何らかの意味があると思うのです。 あなたの旅 私達の地上の肉体は幕屋だと、聖書は言います(2Cor. 5:1-4)。旧約聖書の時代、エジプトを出て、神が約束された地に入るまでの仮の住まいが、幕屋でした。荒野での旅の中で奴隷であったイスラエル人は、律法を与えられ、土地を得、神の民へと形作られていきました。 このイメージに重ね合わせると、地上にいる時間は私達の中に、神の民としてのあり方が生まれていく荒野の旅です。 「20歳の顔は自然からの贈り物。50歳の顔はあなたの功績。」ココ・シャネル 言わずと知れたシャネル、高級ブランドの創設者の言葉です。着飾るということは、見せびらかしたり、不自由な飾り物になることではない。どんな生き方を選択するのか、可能にするのか、現代の洋服を普及させ人々の生活とアイデンティティに革命を起こした人です。 シャネルの言葉を見て、すごいな!と思いました。生まれたときの遺伝子、生物学的要素だけではなく環境は、私達ではどうしようも出来ない要素が多い。 でも50歳は、70歳は、80歳は…その人がどのように生きてきたかが顔に、表情に、生き方、立ち振舞、言葉の端々に現れる。 私はこう思うんです。私たちの内側、魂の中には、霊的な姿かたちが作られていく。体の機能が失われていきます。不自由になっていきます。もとに戻らない。 しかし、私たちの中で、私たちが作られていくのです。肉体とは逆に、魂の体は、美しく、若い時以上に素晴らしく作られていく。 彫刻刀で削られていくように、失うことによって、私たちの魂の形が作られていくのです。失うということが、私たちを形作ってくれます。私たちが誰であるのか。 失う過程は、与えられる過程。地上で失う時、天の姿は作られていく。 あなたの魂の形を想像してみて下さい。どんな姿、かたちをしているでしょう。その姿で、主の前に立ちます。 心の痛み、身体の痛み、これまで沢山あったでしょう。そしてこれからも。でも、あなたの魂から奪われていくものは何もありません。 信仰は視力となり 「何年もの間、彼女はこの日を心待ちにしていた。この日、彼女の信仰は視力となって、主と対面し、"おかえり "と言われるのを聞くのだ。」 これは、ある方の訃報の中にあった一文です。 「信仰は視力となって」 神を信じる者たちには、天の国で復活の体が与えられると、聖書は教えています。 神は霊ですから、私たちが神を見る目は、肉体の眼球ではなく、信仰なのです(IIコリ5:6-7)。天国に塵に返るものは持っていけません。 天の国の体は、地上とは全く違う素材で出来ているのでしょう。啓示されている御言葉を手がかりに、推測しかできませんが、私たちが地上で形作る霊性が、天国の体に、姿になる日がやって来ます。 時々思います。その人が何者であるかということは、持つことによってではなく、持たないことによって、より明らかにされる。私たちは痛みによって、形作られると。 この地上では、持つことによって豊かになりますが、信仰者は持たないことによって、豊かになる。 そうなると、この地上で生きる痛み、損失、老化には隠されたレッスンがあるように思います。私たちに、永遠の、来るべき世界を教えてくれているのです。 まだ時間があるなら、素晴らしいことです。永遠の姿を望みながら、この世界でなにか出来ることがあるのでしょう。魅力的な、魂のかたちを作って下さい。 地上のものは朽ち果てますが、塵の中で、私たちの永遠の姿かたちが刻まれているのです。 ※出版権の関係により、無断で不特定多数の方に配布しないようお願い申し上げます。引用の際には出典、『百万人の福音 Bible & Life』いのちのことば社※月号、を明記下さい。
『 百万人の福音 BIBLE&LIFE』「神のかたち」で生きる霊性入門 10月ー赦しと和解
いのちのことば社『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』にて2023年1月から1年間連載を担当しました。 連載タイトルは、「神のかたち」で生きる霊性入門いのちのことば社様から許可をいただきまして掲載いたします。『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』は様々な執筆者の方々の有益な記事や情報が満載です。最新号にてぜひお買い求めください! ※掲載された記事については、PDFの記事を御覧ください。下記は編集前の原文です。紙面の都合上省略された文章が原文には含まれています。編集者の方の尽力によって読みやすくなった文章、また原文のままの文章もどちらも、楽しんで頂けるかと思い、両方を残してあります。 赦しと和解 「神のかたち」を自分自身の生活の中に形作る、というテーマでお届けしています。 理不尽 詩篇51編はダビデが預言者ナタンからバテ・シェバの件を諌められたときに作られた詩歌と言われます。ウリヤがもし新約聖書の時代に生きていたら…ウリヤにダビデを赦しなさいと言えるでしょうか。高速道路の向こう側で見かけても、掴みかかって、殴りたい関係なのに、にっこり笑って「兄弟」と呼べる関係になれということでしょうか。 ナタンのような立場の人にとって、踏んだり蹴ったりではないでしょうか。苦しめられた挙げ句に、許しがたい相手を受け入れなさい、という精神的葛藤の二重苦。なぜ、罪を犯したものが赦され、苦しんだ者から温かい抱擁を得ることができるのか。 事の大小に関わらず、赦しの問題については、このジレンマが生じます。この点で葛藤している方々は少なくありません。今回は「赦し」と「和解」の違いについて、ご紹介いたします。 「赦し」と「和解」 ヘンリー・クラウドは『境界線』の中でこのように記しています。 「赦しと和解の区別がつけられない人は少なくありません。…赦すとは自分の境界線をもう一度取り払い、相手に自分を傷つける力を与えることだと勘違いしてしまうために、赦すことが恐くてできない人が大勢います。」14章境界線への抵抗 私たちが日常会話の中で使うのは「許し」です。「許す」とは、聞き入れる、自由にさせる、という意味です。対して聖書の中で過失や罪を巡って、他者との関わりの中で使われるのは「赦し」です。「赦す」とは刑罰や義務を免除する、という意味で使われます。 赦しは神からの命令です(マタイ6:9-15)。他者への「赦し」は「主の祈り」の中に含まれ、私たちが日々行うべき霊的営みとして定められています。 赦しについて、葛藤を抱えている人は、まず、「赦し」と「和解」を区別することが必要です。「赦し」は「仲直り」のことではありません。 「赦し」が意味する範囲 「赦し」はあなた自身、一人いれば完結します。負債を免除されたしもべの例え(マタイ18:21-35)は「赦し」の理解を助けてくれます。「赦し」とは、相手から私たちに負っている負債を取り立てる権利を放棄し、私たちへの賠償責任から自由にすることです。 赦すために、相手は私に対して、何も弁償しなくても良いですし、相手からの謝罪も必要ありません。相手があなたに謝らなかったとしても、悪いと思っていないとしても、あなたはその、紛争関係を終わらせることが出来ます。「赦し」はあなたの心のなかで生じる恵みであり、あなたと神がいれば十分です。 そのため、「赦す」ことにおいて、あなたは、あなたを傷つけた人と、必ずしも良い関係に戻る必要はありません。「赦し」は命令ですが「和解」は条件付きだからです。 「和解」とは 「和解」のイメージは、「仲直り」です。どちらが悪いことをしたのか明らかにされ、被害を与えた側は間違いを認めて、謝ります。被害を訴えている人の正しさが証明され、何らかの償い、もしくは改善が約束されます。そして、両者は関係を回復します。 「和解」は成立するとは限りません。相手からの謝罪と償いは得られない可能性があるからです。相手は悪いことをしたと思っていないかもしれない。自分がやったことを忘れているかもしれません。 虐待的な親であったり、横暴な上司であったり、あなたを裏切って消えた友人達と再び関係をもつ可能性がどれだけあるのか。相手はもう死んでいるかもしれない。 神が私達に命じていることは、相手と状況次第の「和解」ではないのです。 真の問題解決 もちろん私たちは、「和解」の可能性を信じ、寛容な心を持つ必要があります。同時に、自分自身にとって問題の本当の解決とは、何を指すのか考える必要があります。自分の心に耳を傾け、嘘をつかないことです。痛みが回復する過程を省略しても、問題は解決しません。 あなたの心の整理、状況の整理に時間をかけて下さい。相手がいる場合は、十分な信頼関係を構築することが出来るまで、安全な距離を取ってください。 同じ過ちをお互いに繰り返すことがないように、自分と相手の行動が改善を伴っているのか、自分なりにどのような結論を出すのか、考えて下さい。 他者や自分自身の未成熟さ、自己中心性を助長するような解決方法は「和解」ではありません。 相手と問題から自由になる 「赦し」は、相手のためではなく、自分自身にとっての福音です。相手があなたに負っている負債を取り立てる必要はなく、あなたは損害からの傷や、「被害者」という立場から自由になるのです。 負債の問題は、あなたと相手の問題ではなく、相手と神の問題になります(ローマ12:18-21)。「赦し」はあなたの未来を守る境界線です。 赦し難い人、出来事が、どんな人にもいくつかあるでしょう。自由になって下さい。あなたの人生は怒りや復讐ではなく、もっと良いもので形作られるべきです。 ※出版権の関係により、無断で不特定多数の方に配布しないようお願い申し上げます。引用の際には出典、『百万人の福音 Bible & Life』いのちのことば社※月号、を明記下さい。
「キリストのゆりかご」2023年12月 羅府新報 掲載
「キリストのゆりかご」2023年12月 羅府新報のために執筆したコラムです。 南キリスト教教会連合 羅府新報掲載 キリストのゆりかご Covid-19、マスク、ワクチン、大統領選挙、ロシア・ウクライナ、イスラエル・パレスチナ、インフレ、円安...ここ数年で私達は、いくつもの大きな変化を経験しました。2023も残すところ僅か。皆さま、本当にお疲れさまです。 賛成か反対か、◯◯派か、XX派か。近年、社会には対立が生まれやすい問題が溢れています。友人や家族と、楽しくのんきにコーヒーを飲んでいたら、何らかの話題で突然議論になることがあるでしょう。和やかな雰囲気は一転し、間違っていると激怒され、よく分からない話が始まる、ということは、珍しくない光景になりました。 議論となる問題は様々ですが、背後には共通する精神性を感じます。余裕のなさ、強迫的な心情、不安、他者を間違っている、劣っていると断定する。意見の違いは、対話ではなく対決になります。 カトリックの著名な思想家であるヘンリー・ナウエンは次のような言葉を残しています。 「霊的な成長は私達を、神についての知識を誇る高慢な境地へと導くのではなく、「学識ある無知(ラテン語:docta ignorantia)」、すなわち 「知らないということを、正しく理解すること(articulate not-knowing)」へと導くのです。」 Nouwen, Henri J. M. "Spiritual Formation” Ch.1, HarperCollins. 未知を受け取る 今年もクリスマスの季節になりました。クリスマスが人を幸せな気持ちにする、一つの理由は、クリスマスの心でしょう。恵み、憐れみ、希望、温かさ、受け入れる心、与えること...この精神は聖書のキリストの生誕のメッセージから流れています。 聖書のクリスマスの物語は、理解を超えた啓示、未知との出会いの物語です。キリストは、馬小屋の飼い葉桶、貧しい人々の間に生まれました。人の理解を越えた啓示を受け取る精神的・物理的空間は神殿や王宮ではなく、市井の人の間にあったのだと思います。 理解できないけれど、ヨセフはマリアと幼子イエスを受け入れる、優しさと誠実さを持っていました。 確かではないけれども、東方の博士たちは、遠い国に旅立つ勇気と未知のものへの熱意がありました。 恐怖を感じたけれど、羊飼いたちは素直に温かい心で行動出来る人たちでした(ルカ2:9)。 予測できない未来だけど、マリアには神への信頼と霊的な思慮深さがありました(ルカ2:29)。 キリストのゆりかごになったのは、理解を超えることを受け入れる人たちの、寛容さ、温かさ、謙虚さでした。 短気でせっかちな世界だからこそ、私達はナウエンの言う「知らないということを、理解する」心の空間が必要だと思うのです。 キリストの命が息吹くゆりかごを自分の中に保っておきましょう。私達は他者からのラベル付けから自由です。私は裁かれない、裁く必要もない。何者かである必要もない。分からない状態でいること、考える過程を通ること、思いを巡らせ、自由で穏やかな心に住むことができます。 愛する人達との団らんの時に、滅入りそうな議論が始まりそうになったら、キリストのゆりかごを揺らしてみて下さい。神の恵みが地上に息吹く季節となりますように。 池田モース優美 セカンドレベルミニストリー/ソウルケア代表 ※ 他の投稿者の方々のコラムはこちらの南加連合のウェブサイトから読むことが出来ます。
『 百万人の福音 BIBLE&LIFE』「神のかたち」で生きる霊性入門 9月ー安息日の本質
いのちのことば社『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』にて2023年1月から1年間連載を担当しております。 連載タイトルは、「神のかたち」で生きる霊性入門いのちのことば社様から許可をいただきまして掲載いたします。『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』は様々な執筆者の方々の有益な記事や情報が満載です。最新号にてぜひお買い求めください! ※掲載された記事については、PDFの記事を御覧ください。下記は編集前の原文です。紙面の都合上省略された文章が原文には含まれています。編集者の方の尽力によって読みやすくなった文章、また原文のままの文章もどちらも、楽しんで頂けるかと思い、両方を残してあります。 安息日の本質 中庭の意味 米国カリフォルニア州、西海岸沿線にはカリフォルニアミッションという21の教会遺跡群があります。18世紀、カトリックのフランシス会が、先住民族に対する支配と布教活動のための拠点として建設しました。 これまで10箇所ほどミッション教会を訪ねました。そしてある共通点に気がつきました。大小の差はありますが、どれも同じような構造をしています。 中央の四角形の中庭を囲むように、礼拝堂、司祭の宿舎、兵士や使用人の居住区、その他の付属の部屋が配置されています。図参照。 Old Mission Santa Barbara in 1792SBTHP L history. SBTHP. (n.d.). https://www.sbthp.org/history 中央は美しく手入れされている庭園です。こんな贅沢なスペースをよく真ん中に添えたものだと、当初思いました。私なら、中庭を畑か作業場にします。 中庭には意味があるのだそうです。静寂、瞑想、祈り、そしてコミュニティの絆を促進する場所として、修道会を中心とした共同体全体の活動に不可欠な場所なのだと。中庭は修道士たちにとって、神と語り、神を想うための重要なスペースです。 安息日の本質 イエス・キリストは安息日に病人を癒したり(ルカ13:10-17、マタイ12:9-14)、麦の穂を摘んで食べている弟子の行動を制限しなかったため非難されたり(マタイ12:1-2)と、何度もユダヤ人との間で安息日について、議論を巻き起こしています。当時の安息日の規定に敢えて挑戦をしているかのようです。後世の信仰者たちにも、安息日について、よく考えるようにというメッセージなのではないでしょうか。 『情緒的に健全な霊性』Scazzero, P. (2019). In Emotionally healthy spirituality . Duranno Press. (邦訳未出版)という本があります。私自身の安息日の実践を考えさせてくれた良書です。この本の6章では、安息日の4つの原則として、「1.止まること、2.休息すること、3.喜ぶこと、4.考えること」が挙げられています。 1.止まること ある牧師はレビ記の安息年の記述(レビ25:1-4)から「休むためには信仰が必要だ。」と言いました。止まるとは、世界の主権を握っているのは神であると認めることです。自分には限界があることを謙虚に認め、神の力を信頼することが必要です。 2.休息すること 安息日はイスラエルの民がエジプトを出て、神の民として選ばれたことの証明です(出エ20:8-11)。神を信じるものへの憐れみと安らぎを、私たちが感じ、受け取る日です。先程ご紹介した本の中では、休息を取るために止めるべきものとして次のようなものが挙げられます。 ー肉体的疲労・焦燥感・マルチタスキング・競争・心配・意思決定・用事を済ませること・会話・テクノロジー(携帯電話、テレビ、パソコン、ソーシャル・メディア等) これらのうちのいくつか、可能な方はすべて、安息日の間止めてみて下さい。 3.喜ぶこと 神は創造の仕事を終えた後、「それは非常によかった」と宣言しました(創世記1:31)。安息日は、ご自身のわざを喜ばれた神の心を生きる日です。神が創造された自然を見たり、体を動かしたり、自分の想像力を働かせることで構いません。「これは非常に素晴らしい!」と感嘆し、神を賛美し、喜びが生まれるような日にしてみて下さい。 4.考えること Contemplate(熟考する、観想する)という言葉があります。心を沈めて、深く思索するという意味です。神について、そして私たちの魂について思い巡らし、霊的な焦点を合わせることが安息日の本質です。 安息日の心 ここまで書くと、そんなこと到底私の生活では出来ない、と考える方がいらっしゃるでしょう。日本の労働・生活環境では本当に難しいです。 4人お子さんがいらっしゃる方が、こう教えてくれました。「ある曜日の午前中の数時間と、別の曜日の午後の数時間。私はこの時間を安息日として取り分けている」と。そのような考え方は画期的でした。 […]
『 百万人の福音 BIBLE&LIFE』「神のかたち」で生きる霊性入門 8月ー自由を鍛える
いのちのことば社『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』にて2023年1月から1年間連載を担当しております。 連載タイトルは、「神のかたち」で生きる霊性入門いのちのことば社様から許可をいただきまして掲載いたします。『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』は様々な執筆者の方々の有益な記事や情報が満載です。最新号にてぜひお買い求めください! ※掲載された記事については、PDFの記事を御覧ください。下記は編集前の原文です。紙面の都合上省略された文章が原文には含まれています。編集者の方の尽力によって読みやすくなった文章、また原文のままの文章もどちらも、楽しんで頂けるかと思い、両方を残してあります。 自由を鍛える 「神のかたち」を自分自身の生活の中に形作る、というテーマでお届けしています。 自由の対価 二人の方をご紹介します。 Aさん 「私は単に利用されているだけだということは分かっています。役に立たなければ、罵られることさえあります。でも、今の生活を続けたいと思うので、結局従ってしまうんです。」 Bさん 「もしかしたら、私は会社の中の重要な地位についていたのかも知れません。しかし、私は聖霊の導きに従って、働く自由が欲しかった。だから、良いオファーを断って、一人で活動しています。今は大変です。組織からの支援も、肩書きもない。でも、これで良いという確信があるんですよ。」 時々、自由の対価とはなんと大きなものかと思います。信仰の自由のためにアメリカ大陸へと渡った新教徒、女性解放運動、ガンジーによるインド独立運動、公民権運動、天安門事件等々...自由のための道のりは、迫害と弾圧の歴史です。 私たち個人の自由への道も、楽ではありません。Aさんは、生活の保証を得ていますが、自らの心は、自分が真に自由でないということを知っています。一方で、整備された道を降りて、でこぼこ道を行くBさんのような人もいます。 私達の自由 私達は自由でしょうか。もちろん、現代の日本に生きている人々は奴隷ではありません。良心的で誠実な信仰者は、罪を避け、神の子供として自由の恵みを体験しているはずです(ヨハネ8:31-36)。 現代社会に生きる人々には、比較的自由が保証されている。そうであるにしても、私は様々な人々の価値観と思考の流れをたどるとき、自由とは言い難い、魂を閉じ込めている何かを感じるのです。人としての尊厳を無視するような価値観、人に奴隷になれ、と囁きかける声です。 キリストの自由 キリストがどのような自由を選択したのか荒野の誘惑に見ることができます(マタイ4:1-11)。イエスはパンよりも神のことばに従って生きることを選びました。 結果としてイエス・キリストの肩書は「大工の息子」。貧しく、休む家もない人として生涯を終えました。世の中が与える財産よりも自由を選んだ結果です。 保証された生活、人々からの称賛・承認、これらは私たちの優しい羊飼い、というよりは奴隷監督です。奴隷監督は、彼らを満足させれば、私たちは受け入れられ、そうでない場合、私たちに価値はない、と囁きます。 十字架の上で遂には体の自由までも失ったキリスト。私たちの魂はそれでもキリストは、真に自由であるということを知っています。 悪魔や人間が課す檻は神の霊を閉じ込めることはできません。キリストは、神であることの尊厳と自由を地上の富と引き換えにはしませんでした。 自由のために、あなたの尊厳のために 「私はいつになったら受け入れられるのだろう」「私は失敗した。若さ、学歴、仕事、配偶者、富の競争に出遅れた。私には価値がない」。このような考えが、多くの人々の心を深く蝕んでいます。 日本人を苦しめる1つの強固な精神性は比較です。自分自身にある絶対的な価値を認めていないため、他者との比較、社会の価値基準の中で自分の価値を確認しています。 「勝ち組」でも「負け組」でも、何らかのランクを絶対視していることには変わりはありません。番付という奴隷監督の元にあります。 「負け組」だと信じる人は、比較の物差しの中では、永遠に底辺の「奴隷」です。それでも、自分自身を奴隷にする虐待的な奴隷監督の元に留まり続けます。 自由になるためには、外には自由な世界があるということ、そして自分がどのような価値観の奴隷になっているのか、気付く必要があります。 人の心の中の「あなたは奴隷だ」とささやく声に出会うとき、自由になって欲しいと、心から願います。自由に空へと羽ばたいて欲しい。神のかたちを表す被造物として、自分自身の尊厳を大切にして欲しい。 魂の自由 マキシミリアン・コルベ神父は日本でも6年間宣教活動に従事したカトリックの司祭です。彼の遺品は長崎の縁の地に残されています。1941年にアウシュビッツで処刑されました。 コルベ神父はナチスの監視の下、他の収容者たちと強制労働に従事していました。ある日同じ班の中から行方不明者が出ます。脱走者が出たと思われ、連帯責任として同じ班の中から10人が処刑されることになりました。 無作為に選ばれた10人のうちの一人が突然、妻と息子に会えないのか、と泣き崩れます。この囚人の身代わりになりましょう、と進み出たのがコルベ神父でした。 10人の囚人は餓死室に閉じ込められ、餓えと渇きに苦しみます。コルベ神父は一人ひとりを励まし、賛美歌を歌い、息を引き取っていく仲間たちのために祈りました。2週間後、コルベ神父を含め4名はまだ生存していましたが、フェノール注射により処刑されました。 コルベ神父の最期の場面に立ち会った人物が戦後に貴重な証言を残してくれたお陰で、彼の物語が語り継がれています。 たとえ記録に残らなかったとしても、コルベ神父が地上で表した霊的なメッセージの尊さは、天の国に記録されているでしょう(黙示録 3:5) 。 あなたの物語、自由と尊厳のための道筋は、誰にも知られない物語かも知れません。自分を救うためだけの、小さな物語かも知れない。それでも、あなたの奮闘を通して、キリストの自由が世界へと流れていきます。 私たちの魂に絡みついているものが何なのか、よく考えてみてください。人としての尊厳、人間性を奪う鎖から自由になってください。 高い対価を払うことになるかもしれませんが、自由、そして尊厳は、その価値に見合うものなのです。 ※出版権の関係により、無断で不特定多数の方に配布しないようお願い申し上げます。引用の際には出典、『百万人の福音 Bible & Life』いのちのことば社※月号、を明記下さい。
『 百万人の福音 BIBLE&LIFE』「神のかたち」で生きる霊性入門 7月ー愛を鍛える
いのちのことば社『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』にて2023年1月から1年間連載を担当しております。 連載タイトルは、「神のかたち」で生きる霊性入門いのちのことば社様から許可をいただきまして掲載いたします。『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』は様々な執筆者の方々の有益な記事や情報が満載です。最新号にてぜひお買い求めください! ※掲載された記事については、PDFの記事を御覧ください。下記は編集前の原文です。紙面の都合上省略された文章が原文には含まれています。編集者の方の尽力によって読みやすくなった文章、また原文のままの文章もどちらも、楽しんで頂けるかと思い、両方を残してあります。 愛を鍛える 「神のかたち」を自分自身の生活の中に形作る、というテーマでお届けしています。 クラスにて 「最初の夫婦カウンセリングでは必ず次のように伝えます。「今この場で、相手に変わってもらいたい、という期待を捨てること」」 夫婦カウンセリングのクラスを担当する教授から教えてもらったことです。変わるのは、相手ではなく、あなた自身であるというスタートラインに立ってもらうためです。その後、私自身が日本人にかかわる様々な問題に携わりながら、上の言葉の大切さをつくづくと実感させられています。 子供の問題行動に悩む親、ハラスメントや依存症に悩む配偶者、境界線を踏み越えてくる親族、個人の身体・精神・経済的な限界を認めない団体や上司の下で働く社会人。これらの問題は私達が神話のような「愛」を自他ともに信じているため、生じるものです。 神話のような「愛」 聖書によると「神は愛(ヨハネ)」です。性愛、友愛、家族愛、無償の愛...対象によって様々な名前で呼ばれることがありますが、すべての愛の源は神であり、神の愛の一部分が反映されたものです。 従って、神を学ぶことにより、私たちは「愛」が何であるかを学びます。「愛」は情熱と犠牲を伴います(ローマ人への手紙5:8、ヨハネ3:16)。 神話のような「愛」とは、次のような理想像です。 神話は美しく聞こえるけれども、現実には機能しません。多くの人が良いクリスチャンであろうとするため、この考え方で苦しみます。異議を唱えると罪悪感が生まれ、反論が難しいのです。 神の愛 この理論に対抗する考え方をお伝えします。神の愛は、神の聖さ(1Pet. 1:15-16) と義(1John 3:7)も同時に表す必要があるということです。 神は愛を正しく実践する方法を知っています。神は被造物である人を無条件に愛しましたが、神の聖と義を放棄することはありませんでした。聖さと義の無い愛は、神を現すものではありません。 愛のしるしとして、キリストが送られ、愛を全うするために、精神的・霊的な苦痛と物理的な犠牲が払われました(1 Peter 2:24)。キリストは世の不正と罪にチャレンジすることにより、愛を示されました。 犯罪を繰り返す家族を黙認しつづけることは、愛でしょうか?浪費癖のある配偶者の後始末を続けることは愛なのか、それとも? 愛とはただ相手が快適に過ごせるように譲歩を続けることではありません。関係性の中に見られる罪深さや不健全さを正そうとする姿勢も愛です。相手が神の喜ばれる在り方へと、自立を助けることも愛です。 聖さとは罪深い動機や行動を共にしないことです。義とは、良いことと悪いことを明らかにする決断や行動です。憐れみは、成長と成熟を促す忍耐です。愛の実践において、神の全体像である、愛・聖さ・義を示す方向に向けた決断が真の「愛」の実践です。 痛い 「変わるべきなのは、相手ではなく、自分である」という話に戻ってみましょう。厳しい戦いではあるのですが、あなたの愛、寛容さや良心、忍耐を浪費するような相手に対しては、神話のような愛ではなく、神の愛を実践する必要があります。 より高次な神の愛は、あなたが「良い人である」という名声を失わせ「冷たい、あの人はクリスチャンではない」という不名誉を受ける場合があります。 キリストが家族の繋がりを軽視していると捉えられたり(マルコ 3:21)、神を侮辱していると(マタ26:65、ヨハ15:18)言われたようにです。 あなたが非難される場合、どのような人があなたを非難しているか考えてみて下さい。その人達はあなたを本当の意味で大切にしてくれる良い人たちですか?あなたをコントロールしようとしていませんか。 神があなたの決断についてなんと言っているか考えてみて下さい。そして、良い信仰を持っている人たちに、健全な判断とは何か相談してみて下さい。 自分自身への挑戦 実は、一番の強敵は、自分の内側の声です。愛がない、クリスチャンらしくない、と言われても、本当の愛とは何かを実践する荒野に踏み出すことが出来るか。罪悪感に悩み、失敗しながらも、悪戦苦闘の先にある希望を信じるか...。 夫婦喧嘩が増え、子供を失望させることになるかも知れません。安定した生活基盤を失ったり、付き合っている相手と別れたり、昇進の道が絶たれたりするかも知れない。 愛の実践とは、自分自身との戦いです。抵抗に耐える愛の筋肉をつけることです。神は愛の結果として、人となったひとり子を失いました。しかし、神の犠牲は永遠の命に繋がりました。 私達も大切なものを失うことになるかも知れません。私たちは失いますが、鍛えられた愛はより神に似たものとなります。 あなたの愛がどのようなものであるのか、よく考え、信頼できる人から知恵をもらいましょう。愛を鍛える過程においては、理解されないこともあります。しかし、あなたの愛に対する取り組みは、神に知られています。神の導きと平安がある方向へ進んでみてくださいね。 ※出版権の関係により、無断で不特定多数の方に配布しないようお願い申し上げます。引用の際には出典、『百万人の福音 Bible & Life』いのちのことば社※月号、を明記下さい。
『 百万人の福音 BIBLE&LIFE』「神のかたち」で生きる霊性入門 6月ー我と汝
いのちのことば社『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』にて2023年1月から1年間連載を担当しております。 連載タイトルは、「神のかたち」で生きる霊性入門いのちのことば社様から許可をいただきまして掲載いたします。『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』は様々な執筆者の方々の有益な記事や情報が満載です。最新号にてぜひお買い求めください! ※掲載された記事については、PDFの記事を御覧ください。下記は編集前の原文です。紙面の都合上省略された文章が原文には含まれています。編集者の方の尽力によって読みやすくなった文章、また原文のままの文章もどちらも、楽しんで頂けるかと思い、両方を残してあります。 我と汝 「神のかたち」を自分自身の生活の中に形作ってゆく、というテーマでお届けしています。 「我と汝」 20世紀はじめ、ヨーロッパに世界大戦の惨禍が吹き荒れる中、ユダヤ教の神学者マーティン・ブーバーが『我と汝(原著Ich und Du、英訳I and Thou)』という示唆に富んだ本を記しました。 ブーバーはこの本で、人の関係性は2つに分けられる、それは「私と汝(Thau)」か「私とそれ(It)」であると、論じています。 「我-なんじ」の関係性は、他者の存在を尊重し、対話や直接的な関係を通じて相手と真のつながりを持とうとする関わり方です。相手に対する愛情や敬意、信頼などが「我-なんじ」の関係性を生み出す血液です。人だけではなく、あらゆる対象と「私-なんじ」の繋がりを築くことができるとされています。 一方、「私-それ」の関係では、世界は自身の欲求や目的を達成するための手段にすぎません。「私」にのみ関心が向けられています。他者は存在していますが、真の意味では存在せず、「私」と「それ」、物体のような関係です。 世界は、私を幸福にしてくれるため、私の目的を達成させてくれるための手段です。 「私」と「それ」 人を条件で見るということは、私達の社会に深く浸透している価値観です。 「この人は(ものは)私をどれだけ幸せにしてくれるか」 「私の願いを叶えてくれるか」というフィルターを通して、世界を見つめます。 同じようなことが起きます。自分の配偶者、子供、親に対して。友人知人、同僚、従業員、部下、生徒、ご近所さん。 例えば、ピーター・スキャゼロは著書Emotionally Healthy Spirituarityの中で「私とそれ」は次のような関係だと言っています。 Scazzero, Peter. Emotionally Healthy Spirituality (p. 173). Zondervan. Kindle Edition. 第7章、I-It relationship 社会に生きるということは、私達が「それ」として扱われる過程を通過することかも知れません。学歴、容姿、経済力、コミュニケーション能力でラベル付けが始まります。受験戦争、就職活動、数多のマウンティング。インターネットや宣伝広告では、他者を商品のように見つめ、消費して、生きている。 「なんじ」のあなた イエス・キリストは「それ」として扱われている私達に、「なんじ」と呼びかけます。「なんじ」は、私達が根本的にどのような存在なのか、神は私たちをどのように創造したのか、思い出させる語りかけです。 キリストは、悩む人、苦しむ人の声を聞き、立ち止まり、ひざをかがめ、彼らの表情をご覧になった。彼らに触れ、会話し、癒やし、立ち上がらせ...。キリストと虐げられている人たちの物語は、一人ひとりが、敬意を払われるべき存在だという、神の愛を示すものです。 キリストのいのちが私達の中に生きるということは、私達もまた、キリストのように世界に「なんじ」と呼びかけることです。 「なんじ」を認めるとは、言い換えると他者を他者として、認める、尊敬するということとも言えるでしょう。キリスト教的視点で考えると、神が「私」を大切にしてくれるように、他者を理解し、認識する。他者も、神にとっての「なんじ」だからです。 他者は自分の世界の延長線ではなく、自分とは違う意思と願いを持った存在として、独自性と分離を尊重することです。 抽象的な話が続いたので具体的に考えてみましょう。 「それ」から「なんじ」へ 「私とそれ」は私達の価値観に深く染み込んでいます。例えば次の通りです。 「我となんじ」の関係を築いていくために、関わり方をどのように変えることが出来るか、考えてみましょう。例えば... 実際生活で「われ-なんじ」を実行することは、簡単なことではありません。社会は、「われ-なんじ」のために形成されてはいないからです。 […]
「神のかたち」で生きる霊性入門 5月ー自分の頭で考えなさいー師匠からの教え
いのちのことば社『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』にて2023年1月から1年間連載を担当しております。 連載タイトルは、「神のかたち」で生きる霊性入門いのちのことば社様から許可をいただきまして掲載いたします。『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』は様々な執筆者の方々の有益な記事や情報が満載です。最新号にてぜひお買い求めください! ※掲載された記事については、PDFの記事を御覧ください。下記は編集前の原文です。紙面の都合上省略された文章が原文には含まれています。編集者の方の尽力によって読みやすくなった文章、また原文のままの文章もどちらも、楽しんで頂けるかと思い、両方を残してあります。 自分の頭で考えなさいー師匠からの教え 「神のかたち」を自分自身の生活の中に形作ってゆく、というテーマでお届けしています。 今日は、私の信仰の師匠、國光幾代子先生から頂いた信仰の知恵をご紹介します。 國光先生(故人)は私が卒業したインマヌエル聖宣神学校の女子寮監を長年務め、メソジスト教会の牧師として数多くの牧師、献身者、教会員、求道者の指導と育成をされました。 私が先生に出会ったとき、先生は88歳。私は当時23歳で、信仰をもって3年目でした。先生が亡くなるまでの10年間、私は先生から多くの霊的な指導、遺産をいただきました。 これからご紹介する幾つかの言葉は、きっと、皆さんの信仰生活を形作る手がかりになると信じています。 「自分の頭で考えなさい」 「あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。」ピリ 1:9-10 私は大学卒業後、すぐに神学校に入学しました。非キリスト教環境で二十歳まで育った私にとって、キリスト教世界の考え方、文化は外国と同じくらい隔たりを感じる世界でした。キリスト教会、神学校とはいえ、聖書的なもの、文化的なもの、人間的なもの、罪の影響を受けたものも混ざっているという考えに至るには、まだ時間が必要でした。 私はよく、先生のところで泣きながら愚痴を言っていました。人生経験も信仰年限も浅い私にとって、納得できない神学校の習慣があり、また人間関係にも良心が痛むことがあり、うつ病寸前でした。 「自分の頭で考えなさい」と先生は私に言いました。そして幾つかの聖書箇所を開いて下さいました(エペ5:10、1テサ5:21、ピリ1:9-10)。 「自分の頭で考えなさい」という言葉は衝撃的でした。なぜなら、それまでずっと信仰者の模範とは、「従うこと」だと教えられてきたからです。自分の考えや判断を持て、という指導は受けたことがありませんでした。 神は私たちに自分自身の目で、感性で、信仰で良いものと悪いものを判断するように、創造されました。生きた信仰をもつとは、頭を使うことであり、時に痛み、間違いも発生します。完璧ではないかもしれない。 しかし、私達が悩んでいるということは、忠実に神に与えられた可能性を生きていることだと思うのです。 人としての全体性として、有機的な、命が通っている存在として、神の被造物として完成された姿に近いと、私は思うのです。 立場や学歴、信仰年限は関係ありません。神があなたになんと語り掛けているのか、神があなたに与えた良心と、生きている聖霊を信じ、自分の感性に自信を持ち、自分の頭で考えてみてください。 信仰の穴開きごみ袋 色々な事を言われて大変だった時がありました。先生は次のように言われました。「信仰のごみ袋を持ちなさい。それには、穴が開いていなくてはいけません。」 「穴ですか?」 「そうです。穴空きゴミ袋です。色々なことを言う人がいるでしょう。そうしたら、「はい、承りました」と言って、一度袋に入れます。袋には穴が開いていますから、言葉は穴から落ちてどこかに行きます。それでいいのです。」「それでいいのですか、先生?」 「相手は聞いているという姿勢で満足しますから、問題ありません。」 真面目に聞くばかりが能ではないと、学んだ瞬間でした。 「ためていたら、腐ります」 愚痴ばかり言っていた時のこと。「いつも愚痴ばかり言って、すみません。」「いいんです。きちんと出すほうが、良いのです。臭いものをなかったようにして、蓋をすると、もっと腐って悪い臭いを出します。」 隠すよりも、正直であるほうが良い。自分自身の心の声をきちんと理解する大切さを学びました。 「第一直感を大切に」 先生は判断が明確で早い方でした。判断基準を聞いたときに、教えてくださったこと。 「第一直感を大切にしなさい。」「聖書とか、信仰とかではなく?」「もちろん、大切です。しかし、迷ったら自分の直感を大切にしなさい。何かを教えているのです。」 聖霊が働いて教えてくれる、自分の感性を大切にしなさい、という意味なのだと思います。時間の猶予が無かったり、判断に迷う場合に役に立つ基準です。神によって培われている自分自身の感性と選択に自信を持ちましょう。 「すべて自分の考えだと思う必要はありません」 悪い考えや、誘惑が心に浮かぶときの対処の仕方。 「どうして自分はこんなことを考えるのだろうかとか、こんなに汚いことを思っているのか、と悩む必要はありません。サタンの投げる言葉にいちいち反応しなくてもよい。「サタンよ、下がれ」と言って、相手にしない。それだけで良いのです。そのたびに御言葉を心で唱えなさい(1ヨハネ 1: 7)。」 「授業料だと思いなさい」 自分の不注意で、車を大破させて経済的、精神的な痛手を負ったことがありました。とても落ち込んでいたときに、教えていただいたこと。「授業料だと思いなさい。」 マイナスでしかない、経済、時間、精神、肉体的ダメージを、前向きな視点に変えてくれた一言でした。皆さんの失敗も、「授業料」になる日が来ます。 「謙遜でありなさい」 神学校を卒業したとき、先生から頂いた言葉。「神は傲慢な器は用いられません。謙遜でありなさい。」 先生の教えはユーモアがあり、実践的でした。國光先生が、さらに前の先生から教えてもらった、という教えもあります。軍国主義と二度の世界大戦を生き抜いてきた世代です。 クリスチャンは、ただ真面目で善良、騙されやすい羊ではありません。賢く逞しく、ユーモアを持って、魅力的にキリストの姿を表してください。 今日ご紹介した知恵が、皆様の中に魅力的なキリストの姿を形作る手がかりとなれば、幸いです。 ※出版権の関係により、無断で不特定多数の方に配布しないようお願い申し上げます。引用の際には出典、『百万人の福音 […]










