「ままならぬ耐性」2024年11月 羅府新報 掲載
「ままならぬ耐性」2024年11月 羅府新報のために執筆したコラムです。
南キリスト教教会連合 羅府新報掲載
掲載日: 2024年10月31日
ままならぬ耐性
イタリアンレストランに行った。英語なのかイタリア語なのか、良くわからない名前が並ぶメニューから、チキンソテーの文字を見つけ、美味しそうだと思い注文した。
頭の中では、塩味とハーブの効いたチキンが真ん中に乗せられている料理を想像した。ところが出てきた料理は、鶏肉と野菜の炒め物だった。茶色いパプリカと玉ねぎに混ざり込んだ鶏肉が、小さくて見つからない。期待したものと違う。
アメリカでの生活は、私にとってこのような「チキンソテー」だった。計画通りに進まない、電話は繋がらない、注文と違う品が届く、心臓に悪い通知を受け取る。
そして、大きな教訓を学んだ。物事が自分の想定通りに進むはずであるという、前提が間違っていたのだと。日本人の前提に生きすぎていた。
ままならぬ時に、人は神に会う。
「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」マタイ5:3
病気の人、貧しい人、悩みのある人、そんな人達にとって、欲しいものは「天の国」ではなく、病の癒やし、今月の家賃、愛情など地上のものかもしれない。
願いが叶うこともある、叶わないこともある。どちらであっても、神は人の願いが叶うこと以上に、大切なことがあることを教えてくれる。
自由、平和、私の幸せや、愛する人の命よりも大切なことがあるのだろうか。
ある人がいた。彼の母親は彼が幼い時に家を出ていった。彼は一生懸命、母親が家に帰ってきてくれるように、と神に祈った。心に深い寂しさを抱えたまま、彼は成長し、結婚し、子どもが生まれ家庭をもった。時は過ぎたが、母は帰ってこなかった。
大人になった彼はクリスチャンだが、祈ることはなく、神を信頼していない。自分が一番助けを必要とした時に、沈黙した神を許すことが出来ないからだ。神に何かを期待すれば、心が焼けるような悲しみを、再び味わうかも知れない。
母は帰ってこない、願いが叶わない。人生のチキンソテーを見つめる。
人の悲しみや苦しみに対して、誰にでも解決策となるような説明や答えは、ないと思う。人にはそれぞれの痛みがあり、答えは与えられるものではなく、その人の心に生まれるもの。
不思議なことだが、ままならぬことのほうが、沢山のことを教えてくれる。すぐに答えは出ないけれど、少しずつ自分自身の視点が変わる。
チキンソテーを前に、この世界が間違っていると怒ることも自由だが、私は違う生き方を選択することが出来る。人生は思う通りに進まなくていいのだ。
人生で学ぶべきことは、思い通りの人生で幸せを得ることではなく、思い通りにならないことを通して、神を、永遠を、理解していくこと。ままならぬことの一つ一つが、私たちを天の国に連れて行く。
この世界は永遠を学ぶための練習場。思ったようには進まないが、思った以上のことを教えられ、思ったよりも、ずっと多くの人たちが周りにいることを知る。
ままならぬ耐性を身につける。沢山のチキンソテーを出してくれるアメリカは、いいところですね。
池田モース優美
セカンドレベルミニストリー/ソウルケア代表
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