「父性のかけら」2020年6月 羅府新報 掲載
「父性のかけら」2020年6月 羅府新報のために執筆したコラムです。
南キリスト教教会連合 羅府新報掲載
「父性のかけら」
天の神さまは父にたとえられます。地上の父親の姿から、神さまの性質を垣間見ることが出来るという、意味なのかもしれません。私たちは不思議と、理想の父親像がどれだけ現実とかけ離れているとしても、「父」に期待される役割、そしてあるべき姿を知っています。
「父」は私にとって難しいテーマです。私の父はアルコール依存症でした。父親との思い出に苦い思いを持っている人は、少なくありません。そもそも、父親がいなかったという人も多くいます。
「父親は家庭内暴力で刑務所に行った」「自分の父親と母親は結婚したことがない」「兄弟みんな親が違う」クリスチャンの友人たちの話です。
家庭で理想の父親像を学ぶことが出来なかったら、私たちはどこで神さまを知る手がかりを得たらよいのでしょうか。「父性」の理解というのは、人格の形成のためにとても重要です。
私たちは、いろんな人から父性を学ぶことが出来ると思うのです。私には血はつながっていませんが、育ての親である父がいました。Lさんと言います。彼はクリスチャンで、私にとっては父親でした。
長崎で大学生だったとき、私は日本の国際青年海外協力隊の募集に申し込みました。東京まで面接に行きましが、結果は不合格でした。私は気落ちして、家に帰りました。ふすまを開けて「Lさん、青年海外協力隊のね、だめだったよ」と言いました。すると、Lさんは大きな声で、がっはっは!と笑いました。ひとしきり笑うと、長崎弁で「まぁ、よかったがね」と言って、また新聞を読み始めました。
何が良かったのか分かりませんが、私は安心しました。失敗しても大した事じゃない、と大きな心で励ましてもらったような気がします。私にとっては、それは父性の学びでした。彼は60年にわたる長いうつ病との戦いの末、自死しました。それでも私にとって立派な父親です。神の愛を教えてくれました。
父性を学ぶ機会は失われていないと思うのです。神さまがいろんな人を通して、学ぶことが出来なかったこと、得られなかったこと、を届けてくださると思うのです。
父の日に際して、どんなことを思うでしょうか。
みんながそうするから、父に感謝するべきだ、祝うべきだとは言えない難しさがあります。自分が大人になるにつれて、父は一人の人間であって、神ではない、と思うようになりました。父が教えてくれた父性、他の人が示してくれた父性、色々継ぎ合わされて、父なる神さまを知る。それでいいのではないかなと思います。
ソウルケアミニストリー代表/ガーデナ平原バプテスト教会会員
池田モース優美
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