『 百万人の福音 BIBLE&LIFE』「神のかたち」で生きる霊性入門 12月ー世界に拒絶されている
いのちのことば社『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』にて2023年1月から1年間連載を担当しました。 連載タイトルは、「神のかたち」で生きる霊性入門いのちのことば社様から許可をいただきまして掲載いたします。『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』は様々な執筆者の方々の有益な記事や情報が満載です。最新号にてぜひお買い求めください! ※掲載された記事については、PDFの記事を御覧ください。下記は編集前の原文です。紙面の都合上省略された文章が原文には含まれています。編集者の方の尽力によって読みやすくなった文章、また原文のままの文章もどちらも、楽しんで頂けるかと思い、両方を残してあります。 世界に拒絶されている この1年間「神のかたち」を自分自身の生き方に形作る、というテーマで執筆させていただいたことを心から感謝しています。シリーズの最後に、どのような内容が良いだろうかと思い巡らせながら、今回のテーマを選びました。皆さんにとって、なにか前進するきっかけになりますように。 もやもや 数ヶ月前から、目の前に影のようなものがちらつくようになりました。飛蚊症です。知り合いの先生に相談したところ、加齢からくるもので、じきに慣れる。気にしなくてよい、と言われました。そんな年齢になったのか、と気にするところはありますが、慣れるよりほかありません。 今年9月、私はクリスマスカードを注文するため、いくつかの印刷会社のホームページを開いていました。クリスマスの挨拶は、私のミッション活動の報告を兼ねており、数が多いため印刷会社に注文しています。 印刷会社が提示するテンプレートをスクロールするたびに、心の底からもやもやとした何かが湧き上がってきました。まるで視界の端に飛び込んでくる飛蚊症の影のようです。視界の中の黒いゴミの影は目で追うと、まさに飛び回る蚊のようで、イライラします。同じように、心の中のもやもやも、沈殿していた池の底の泥が湧き上がるような、非常に不愉快な感覚でした。 世界は私の場所か この泥は、ずっと私の人生の中に沈殿していました。何回か、霊的同伴者に相談した後、その泥の名前は怒りであり、「拒絶」である、ということが分かりました。 クリスマスカードの見本には、幸せそうな家族が並んでいます。美しい家、豊かな生活、愛情深い両親、笑顔の子供、旅行、贈り物…「幸せ」の展示場。 そして、私はどれも持っていませんでした。自分の現実と、テレビで見る普通の家族と生活、どちらが尋常ではないのか、子供の私には分かりませんでした。確かなことは、正解を知ったとしても、自分の苦しみが増すということでした。 「何に怒っていますか?」と霊的同伴者が尋ねたので、私はしばらく考えて「世界に…全てに」と答えました。 招かれざる者 有名なクリスチャン作家であるLysa Terkeurstは「拒絶」をテーマに "Uninvited(招かれざる者)"という本を記しています。彼女は人生を通じて、彼女を恐れさせ、凍りつかせてきた心の感覚は「拒絶」であると綴っています。「拒絶」は彼女がまだ子供の頃に父親が、家を去っていったことから始まる感覚でした。 「私の顔も見ずに荷物をまとめる父を見て、私の安心感とアイデンティティを支えていた最後の一片が割れた。…拒絶感は私の心の奥底に沈み込んだ。そして、私はある結論に達した。「(中略)お父さんにとって私は何の価値もない」。さらに、次のような結論に結びついた。「私は神にとって何の価値もないのではないか」これらの感覚が、私の新しいアイデンティティとなったのです。」引用"Uninvited"Ch.3 TerKeurst, L. (2016). Ch.3 There’s a Lady at the Gym Who Hates Me. In Uninvited: Living loved when you feel less than, left out, and lonely. essay, Nelson […]
『 百万人の福音 BIBLE&LIFE』「神のかたち」で生きる霊性入門 11月ー信仰は視力となり
いのちのことば社『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』にて2023年1月から1年間連載を担当しました。 連載タイトルは、「神のかたち」で生きる霊性入門いのちのことば社様から許可をいただきまして掲載いたします。『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』は様々な執筆者の方々の有益な記事や情報が満載です。最新号にてぜひお買い求めください! ※掲載された記事については、PDFの記事を御覧ください。下記は編集前の原文です。紙面の都合上省略された文章が原文には含まれています。編集者の方の尽力によって読みやすくなった文章、また原文のままの文章もどちらも、楽しんで頂けるかと思い、両方を残してあります。 信仰は視力となり 「神のかたち」を自分自身の生活の中に形作る、というテーマでお届けしています。 私たちの問題 ある日、乳がんを患った方が来られました。片方の乳房を部分的に除去したため、胸に義肢装具をつけているとのことでした。義肢装具とは義足や義手と同じように、病気や怪我で欠損した体の部位を補うためのものです。 「鏡で自分の胸が欠けている姿を見ると、自分でなくなったような気がするんです。どう表現していいか、わからないんですが、受け入れることが出来ないんです。」 欠けた部分というのは、物理的にも、精神的にも、多くの意味があるでしょう。 体の一部分がなくなりました。見た目が服で隠れているとしても、これまで出来ていたことが、出来なくなったかもしれません。機能を失いました。可能性を失いました。 欠けた肉体は再生できません。失うという痛みがあります。もう戻らない、再生されない。私達の肉体の終わりを思わせる、暗いサインでもあるでしょう。 彼女との会話で、この話は私達人間、全ての話だと思いました。障害、病気、事故、老化。遅かれ早かれ、私たちの健康は失われ、体の機能は衰えていきます。 人間は塵で作られている、と聖書は言います。私たちも世界も、海辺に作った砂山のように、変化し崩れる。しかし、失いながら生きていくことは、ただ死に向かうだけの旅ではない。その過程に何らかの意味があると思うのです。 あなたの旅 私達の地上の肉体は幕屋だと、聖書は言います(2Cor. 5:1-4)。旧約聖書の時代、エジプトを出て、神が約束された地に入るまでの仮の住まいが、幕屋でした。荒野での旅の中で奴隷であったイスラエル人は、律法を与えられ、土地を得、神の民へと形作られていきました。 このイメージに重ね合わせると、地上にいる時間は私達の中に、神の民としてのあり方が生まれていく荒野の旅です。 「20歳の顔は自然からの贈り物。50歳の顔はあなたの功績。」ココ・シャネル 言わずと知れたシャネル、高級ブランドの創設者の言葉です。着飾るということは、見せびらかしたり、不自由な飾り物になることではない。どんな生き方を選択するのか、可能にするのか、現代の洋服を普及させ人々の生活とアイデンティティに革命を起こした人です。 シャネルの言葉を見て、すごいな!と思いました。生まれたときの遺伝子、生物学的要素だけではなく環境は、私達ではどうしようも出来ない要素が多い。 でも50歳は、70歳は、80歳は…その人がどのように生きてきたかが顔に、表情に、生き方、立ち振舞、言葉の端々に現れる。 私はこう思うんです。私たちの内側、魂の中には、霊的な姿かたちが作られていく。体の機能が失われていきます。不自由になっていきます。もとに戻らない。 しかし、私たちの中で、私たちが作られていくのです。肉体とは逆に、魂の体は、美しく、若い時以上に素晴らしく作られていく。 彫刻刀で削られていくように、失うことによって、私たちの魂の形が作られていくのです。失うということが、私たちを形作ってくれます。私たちが誰であるのか。 失う過程は、与えられる過程。地上で失う時、天の姿は作られていく。 あなたの魂の形を想像してみて下さい。どんな姿、かたちをしているでしょう。その姿で、主の前に立ちます。 心の痛み、身体の痛み、これまで沢山あったでしょう。そしてこれからも。でも、あなたの魂から奪われていくものは何もありません。 信仰は視力となり 「何年もの間、彼女はこの日を心待ちにしていた。この日、彼女の信仰は視力となって、主と対面し、"おかえり "と言われるのを聞くのだ。」 これは、ある方の訃報の中にあった一文です。 「信仰は視力となって」 神を信じる者たちには、天の国で復活の体が与えられると、聖書は教えています。 神は霊ですから、私たちが神を見る目は、肉体の眼球ではなく、信仰なのです(IIコリ5:6-7)。天国に塵に返るものは持っていけません。 天の国の体は、地上とは全く違う素材で出来ているのでしょう。啓示されている御言葉を手がかりに、推測しかできませんが、私たちが地上で形作る霊性が、天国の体に、姿になる日がやって来ます。 時々思います。その人が何者であるかということは、持つことによってではなく、持たないことによって、より明らかにされる。私たちは痛みによって、形作られると。 この地上では、持つことによって豊かになりますが、信仰者は持たないことによって、豊かになる。 そうなると、この地上で生きる痛み、損失、老化には隠されたレッスンがあるように思います。私たちに、永遠の、来るべき世界を教えてくれているのです。 まだ時間があるなら、素晴らしいことです。永遠の姿を望みながら、この世界でなにか出来ることがあるのでしょう。魅力的な、魂のかたちを作って下さい。 地上のものは朽ち果てますが、塵の中で、私たちの永遠の姿かたちが刻まれているのです。 ※出版権の関係により、無断で不特定多数の方に配布しないようお願い申し上げます。引用の際には出典、『百万人の福音 Bible & Life』いのちのことば社※月号、を明記下さい。
『 百万人の福音 BIBLE&LIFE』「神のかたち」で生きる霊性入門 10月ー赦しと和解
いのちのことば社『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』にて2023年1月から1年間連載を担当しました。 連載タイトルは、「神のかたち」で生きる霊性入門いのちのことば社様から許可をいただきまして掲載いたします。『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』は様々な執筆者の方々の有益な記事や情報が満載です。最新号にてぜひお買い求めください! ※掲載された記事については、PDFの記事を御覧ください。下記は編集前の原文です。紙面の都合上省略された文章が原文には含まれています。編集者の方の尽力によって読みやすくなった文章、また原文のままの文章もどちらも、楽しんで頂けるかと思い、両方を残してあります。 赦しと和解 「神のかたち」を自分自身の生活の中に形作る、というテーマでお届けしています。 理不尽 詩篇51編はダビデが預言者ナタンからバテ・シェバの件を諌められたときに作られた詩歌と言われます。ウリヤがもし新約聖書の時代に生きていたら…ウリヤにダビデを赦しなさいと言えるでしょうか。高速道路の向こう側で見かけても、掴みかかって、殴りたい関係なのに、にっこり笑って「兄弟」と呼べる関係になれということでしょうか。 ナタンのような立場の人にとって、踏んだり蹴ったりではないでしょうか。苦しめられた挙げ句に、許しがたい相手を受け入れなさい、という精神的葛藤の二重苦。なぜ、罪を犯したものが赦され、苦しんだ者から温かい抱擁を得ることができるのか。 事の大小に関わらず、赦しの問題については、このジレンマが生じます。この点で葛藤している方々は少なくありません。今回は「赦し」と「和解」の違いについて、ご紹介いたします。 「赦し」と「和解」 ヘンリー・クラウドは『境界線』の中でこのように記しています。 「赦しと和解の区別がつけられない人は少なくありません。…赦すとは自分の境界線をもう一度取り払い、相手に自分を傷つける力を与えることだと勘違いしてしまうために、赦すことが恐くてできない人が大勢います。」14章境界線への抵抗 私たちが日常会話の中で使うのは「許し」です。「許す」とは、聞き入れる、自由にさせる、という意味です。対して聖書の中で過失や罪を巡って、他者との関わりの中で使われるのは「赦し」です。「赦す」とは刑罰や義務を免除する、という意味で使われます。 赦しは神からの命令です(マタイ6:9-15)。他者への「赦し」は「主の祈り」の中に含まれ、私たちが日々行うべき霊的営みとして定められています。 赦しについて、葛藤を抱えている人は、まず、「赦し」と「和解」を区別することが必要です。「赦し」は「仲直り」のことではありません。 「赦し」が意味する範囲 「赦し」はあなた自身、一人いれば完結します。負債を免除されたしもべの例え(マタイ18:21-35)は「赦し」の理解を助けてくれます。「赦し」とは、相手から私たちに負っている負債を取り立てる権利を放棄し、私たちへの賠償責任から自由にすることです。 赦すために、相手は私に対して、何も弁償しなくても良いですし、相手からの謝罪も必要ありません。相手があなたに謝らなかったとしても、悪いと思っていないとしても、あなたはその、紛争関係を終わらせることが出来ます。「赦し」はあなたの心のなかで生じる恵みであり、あなたと神がいれば十分です。 そのため、「赦す」ことにおいて、あなたは、あなたを傷つけた人と、必ずしも良い関係に戻る必要はありません。「赦し」は命令ですが「和解」は条件付きだからです。 「和解」とは 「和解」のイメージは、「仲直り」です。どちらが悪いことをしたのか明らかにされ、被害を与えた側は間違いを認めて、謝ります。被害を訴えている人の正しさが証明され、何らかの償い、もしくは改善が約束されます。そして、両者は関係を回復します。 「和解」は成立するとは限りません。相手からの謝罪と償いは得られない可能性があるからです。相手は悪いことをしたと思っていないかもしれない。自分がやったことを忘れているかもしれません。 虐待的な親であったり、横暴な上司であったり、あなたを裏切って消えた友人達と再び関係をもつ可能性がどれだけあるのか。相手はもう死んでいるかもしれない。 神が私達に命じていることは、相手と状況次第の「和解」ではないのです。 真の問題解決 もちろん私たちは、「和解」の可能性を信じ、寛容な心を持つ必要があります。同時に、自分自身にとって問題の本当の解決とは、何を指すのか考える必要があります。自分の心に耳を傾け、嘘をつかないことです。痛みが回復する過程を省略しても、問題は解決しません。 あなたの心の整理、状況の整理に時間をかけて下さい。相手がいる場合は、十分な信頼関係を構築することが出来るまで、安全な距離を取ってください。 同じ過ちをお互いに繰り返すことがないように、自分と相手の行動が改善を伴っているのか、自分なりにどのような結論を出すのか、考えて下さい。 他者や自分自身の未成熟さ、自己中心性を助長するような解決方法は「和解」ではありません。 相手と問題から自由になる 「赦し」は、相手のためではなく、自分自身にとっての福音です。相手があなたに負っている負債を取り立てる必要はなく、あなたは損害からの傷や、「被害者」という立場から自由になるのです。 負債の問題は、あなたと相手の問題ではなく、相手と神の問題になります(ローマ12:18-21)。「赦し」はあなたの未来を守る境界線です。 赦し難い人、出来事が、どんな人にもいくつかあるでしょう。自由になって下さい。あなたの人生は怒りや復讐ではなく、もっと良いもので形作られるべきです。 ※出版権の関係により、無断で不特定多数の方に配布しないようお願い申し上げます。引用の際には出典、『百万人の福音 Bible & Life』いのちのことば社※月号、を明記下さい。
『 百万人の福音 BIBLE&LIFE』「神のかたち」で生きる霊性入門 9月ー安息日の本質
いのちのことば社『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』にて2023年1月から1年間連載を担当しております。 連載タイトルは、「神のかたち」で生きる霊性入門いのちのことば社様から許可をいただきまして掲載いたします。『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』は様々な執筆者の方々の有益な記事や情報が満載です。最新号にてぜひお買い求めください! ※掲載された記事については、PDFの記事を御覧ください。下記は編集前の原文です。紙面の都合上省略された文章が原文には含まれています。編集者の方の尽力によって読みやすくなった文章、また原文のままの文章もどちらも、楽しんで頂けるかと思い、両方を残してあります。 安息日の本質 中庭の意味 米国カリフォルニア州、西海岸沿線にはカリフォルニアミッションという21の教会遺跡群があります。18世紀、カトリックのフランシス会が、先住民族に対する支配と布教活動のための拠点として建設しました。 これまで10箇所ほどミッション教会を訪ねました。そしてある共通点に気がつきました。大小の差はありますが、どれも同じような構造をしています。 中央の四角形の中庭を囲むように、礼拝堂、司祭の宿舎、兵士や使用人の居住区、その他の付属の部屋が配置されています。図参照。 Old Mission Santa Barbara in 1792SBTHP L history. SBTHP. (n.d.). https://www.sbthp.org/history 中央は美しく手入れされている庭園です。こんな贅沢なスペースをよく真ん中に添えたものだと、当初思いました。私なら、中庭を畑か作業場にします。 中庭には意味があるのだそうです。静寂、瞑想、祈り、そしてコミュニティの絆を促進する場所として、修道会を中心とした共同体全体の活動に不可欠な場所なのだと。中庭は修道士たちにとって、神と語り、神を想うための重要なスペースです。 安息日の本質 イエス・キリストは安息日に病人を癒したり(ルカ13:10-17、マタイ12:9-14)、麦の穂を摘んで食べている弟子の行動を制限しなかったため非難されたり(マタイ12:1-2)と、何度もユダヤ人との間で安息日について、議論を巻き起こしています。当時の安息日の規定に敢えて挑戦をしているかのようです。後世の信仰者たちにも、安息日について、よく考えるようにというメッセージなのではないでしょうか。 『情緒的に健全な霊性』Scazzero, P. (2019). In Emotionally healthy spirituality . Duranno Press. (邦訳未出版)という本があります。私自身の安息日の実践を考えさせてくれた良書です。この本の6章では、安息日の4つの原則として、「1.止まること、2.休息すること、3.喜ぶこと、4.考えること」が挙げられています。 1.止まること ある牧師はレビ記の安息年の記述(レビ25:1-4)から「休むためには信仰が必要だ。」と言いました。止まるとは、世界の主権を握っているのは神であると認めることです。自分には限界があることを謙虚に認め、神の力を信頼することが必要です。 2.休息すること 安息日はイスラエルの民がエジプトを出て、神の民として選ばれたことの証明です(出エ20:8-11)。神を信じるものへの憐れみと安らぎを、私たちが感じ、受け取る日です。先程ご紹介した本の中では、休息を取るために止めるべきものとして次のようなものが挙げられます。 ー肉体的疲労・焦燥感・マルチタスキング・競争・心配・意思決定・用事を済ませること・会話・テクノロジー(携帯電話、テレビ、パソコン、ソーシャル・メディア等) これらのうちのいくつか、可能な方はすべて、安息日の間止めてみて下さい。 3.喜ぶこと 神は創造の仕事を終えた後、「それは非常によかった」と宣言しました(創世記1:31)。安息日は、ご自身のわざを喜ばれた神の心を生きる日です。神が創造された自然を見たり、体を動かしたり、自分の想像力を働かせることで構いません。「これは非常に素晴らしい!」と感嘆し、神を賛美し、喜びが生まれるような日にしてみて下さい。 4.考えること Contemplate(熟考する、観想する)という言葉があります。心を沈めて、深く思索するという意味です。神について、そして私たちの魂について思い巡らし、霊的な焦点を合わせることが安息日の本質です。 安息日の心 ここまで書くと、そんなこと到底私の生活では出来ない、と考える方がいらっしゃるでしょう。日本の労働・生活環境では本当に難しいです。 4人お子さんがいらっしゃる方が、こう教えてくれました。「ある曜日の午前中の数時間と、別の曜日の午後の数時間。私はこの時間を安息日として取り分けている」と。そのような考え方は画期的でした。 […]
『 百万人の福音 BIBLE&LIFE』「神のかたち」で生きる霊性入門 8月ー自由を鍛える
いのちのことば社『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』にて2023年1月から1年間連載を担当しております。 連載タイトルは、「神のかたち」で生きる霊性入門いのちのことば社様から許可をいただきまして掲載いたします。『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』は様々な執筆者の方々の有益な記事や情報が満載です。最新号にてぜひお買い求めください! ※掲載された記事については、PDFの記事を御覧ください。下記は編集前の原文です。紙面の都合上省略された文章が原文には含まれています。編集者の方の尽力によって読みやすくなった文章、また原文のままの文章もどちらも、楽しんで頂けるかと思い、両方を残してあります。 自由を鍛える 「神のかたち」を自分自身の生活の中に形作る、というテーマでお届けしています。 自由の対価 二人の方をご紹介します。 Aさん 「私は単に利用されているだけだということは分かっています。役に立たなければ、罵られることさえあります。でも、今の生活を続けたいと思うので、結局従ってしまうんです。」 Bさん 「もしかしたら、私は会社の中の重要な地位についていたのかも知れません。しかし、私は聖霊の導きに従って、働く自由が欲しかった。だから、良いオファーを断って、一人で活動しています。今は大変です。組織からの支援も、肩書きもない。でも、これで良いという確信があるんですよ。」 時々、自由の対価とはなんと大きなものかと思います。信仰の自由のためにアメリカ大陸へと渡った新教徒、女性解放運動、ガンジーによるインド独立運動、公民権運動、天安門事件等々...自由のための道のりは、迫害と弾圧の歴史です。 私たち個人の自由への道も、楽ではありません。Aさんは、生活の保証を得ていますが、自らの心は、自分が真に自由でないということを知っています。一方で、整備された道を降りて、でこぼこ道を行くBさんのような人もいます。 私達の自由 私達は自由でしょうか。もちろん、現代の日本に生きている人々は奴隷ではありません。良心的で誠実な信仰者は、罪を避け、神の子供として自由の恵みを体験しているはずです(ヨハネ8:31-36)。 現代社会に生きる人々には、比較的自由が保証されている。そうであるにしても、私は様々な人々の価値観と思考の流れをたどるとき、自由とは言い難い、魂を閉じ込めている何かを感じるのです。人としての尊厳を無視するような価値観、人に奴隷になれ、と囁きかける声です。 キリストの自由 キリストがどのような自由を選択したのか荒野の誘惑に見ることができます(マタイ4:1-11)。イエスはパンよりも神のことばに従って生きることを選びました。 結果としてイエス・キリストの肩書は「大工の息子」。貧しく、休む家もない人として生涯を終えました。世の中が与える財産よりも自由を選んだ結果です。 保証された生活、人々からの称賛・承認、これらは私たちの優しい羊飼い、というよりは奴隷監督です。奴隷監督は、彼らを満足させれば、私たちは受け入れられ、そうでない場合、私たちに価値はない、と囁きます。 十字架の上で遂には体の自由までも失ったキリスト。私たちの魂はそれでもキリストは、真に自由であるということを知っています。 悪魔や人間が課す檻は神の霊を閉じ込めることはできません。キリストは、神であることの尊厳と自由を地上の富と引き換えにはしませんでした。 自由のために、あなたの尊厳のために 「私はいつになったら受け入れられるのだろう」「私は失敗した。若さ、学歴、仕事、配偶者、富の競争に出遅れた。私には価値がない」。このような考えが、多くの人々の心を深く蝕んでいます。 日本人を苦しめる1つの強固な精神性は比較です。自分自身にある絶対的な価値を認めていないため、他者との比較、社会の価値基準の中で自分の価値を確認しています。 「勝ち組」でも「負け組」でも、何らかのランクを絶対視していることには変わりはありません。番付という奴隷監督の元にあります。 「負け組」だと信じる人は、比較の物差しの中では、永遠に底辺の「奴隷」です。それでも、自分自身を奴隷にする虐待的な奴隷監督の元に留まり続けます。 自由になるためには、外には自由な世界があるということ、そして自分がどのような価値観の奴隷になっているのか、気付く必要があります。 人の心の中の「あなたは奴隷だ」とささやく声に出会うとき、自由になって欲しいと、心から願います。自由に空へと羽ばたいて欲しい。神のかたちを表す被造物として、自分自身の尊厳を大切にして欲しい。 魂の自由 マキシミリアン・コルベ神父は日本でも6年間宣教活動に従事したカトリックの司祭です。彼の遺品は長崎の縁の地に残されています。1941年にアウシュビッツで処刑されました。 コルベ神父はナチスの監視の下、他の収容者たちと強制労働に従事していました。ある日同じ班の中から行方不明者が出ます。脱走者が出たと思われ、連帯責任として同じ班の中から10人が処刑されることになりました。 無作為に選ばれた10人のうちの一人が突然、妻と息子に会えないのか、と泣き崩れます。この囚人の身代わりになりましょう、と進み出たのがコルベ神父でした。 10人の囚人は餓死室に閉じ込められ、餓えと渇きに苦しみます。コルベ神父は一人ひとりを励まし、賛美歌を歌い、息を引き取っていく仲間たちのために祈りました。2週間後、コルベ神父を含め4名はまだ生存していましたが、フェノール注射により処刑されました。 コルベ神父の最期の場面に立ち会った人物が戦後に貴重な証言を残してくれたお陰で、彼の物語が語り継がれています。 たとえ記録に残らなかったとしても、コルベ神父が地上で表した霊的なメッセージの尊さは、天の国に記録されているでしょう(黙示録 3:5) 。 あなたの物語、自由と尊厳のための道筋は、誰にも知られない物語かも知れません。自分を救うためだけの、小さな物語かも知れない。それでも、あなたの奮闘を通して、キリストの自由が世界へと流れていきます。 私たちの魂に絡みついているものが何なのか、よく考えてみてください。人としての尊厳、人間性を奪う鎖から自由になってください。 高い対価を払うことになるかもしれませんが、自由、そして尊厳は、その価値に見合うものなのです。 ※出版権の関係により、無断で不特定多数の方に配布しないようお願い申し上げます。引用の際には出典、『百万人の福音 Bible & Life』いのちのことば社※月号、を明記下さい。
『 百万人の福音 BIBLE&LIFE』「神のかたち」で生きる霊性入門 7月ー愛を鍛える
いのちのことば社『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』にて2023年1月から1年間連載を担当しております。 連載タイトルは、「神のかたち」で生きる霊性入門いのちのことば社様から許可をいただきまして掲載いたします。『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』は様々な執筆者の方々の有益な記事や情報が満載です。最新号にてぜひお買い求めください! ※掲載された記事については、PDFの記事を御覧ください。下記は編集前の原文です。紙面の都合上省略された文章が原文には含まれています。編集者の方の尽力によって読みやすくなった文章、また原文のままの文章もどちらも、楽しんで頂けるかと思い、両方を残してあります。 愛を鍛える 「神のかたち」を自分自身の生活の中に形作る、というテーマでお届けしています。 クラスにて 「最初の夫婦カウンセリングでは必ず次のように伝えます。「今この場で、相手に変わってもらいたい、という期待を捨てること」」 夫婦カウンセリングのクラスを担当する教授から教えてもらったことです。変わるのは、相手ではなく、あなた自身であるというスタートラインに立ってもらうためです。その後、私自身が日本人にかかわる様々な問題に携わりながら、上の言葉の大切さをつくづくと実感させられています。 子供の問題行動に悩む親、ハラスメントや依存症に悩む配偶者、境界線を踏み越えてくる親族、個人の身体・精神・経済的な限界を認めない団体や上司の下で働く社会人。これらの問題は私達が神話のような「愛」を自他ともに信じているため、生じるものです。 神話のような「愛」 聖書によると「神は愛(ヨハネ)」です。性愛、友愛、家族愛、無償の愛...対象によって様々な名前で呼ばれることがありますが、すべての愛の源は神であり、神の愛の一部分が反映されたものです。 従って、神を学ぶことにより、私たちは「愛」が何であるかを学びます。「愛」は情熱と犠牲を伴います(ローマ人への手紙5:8、ヨハネ3:16)。 神話のような「愛」とは、次のような理想像です。 神話は美しく聞こえるけれども、現実には機能しません。多くの人が良いクリスチャンであろうとするため、この考え方で苦しみます。異議を唱えると罪悪感が生まれ、反論が難しいのです。 神の愛 この理論に対抗する考え方をお伝えします。神の愛は、神の聖さ(1Pet. 1:15-16) と義(1John 3:7)も同時に表す必要があるということです。 神は愛を正しく実践する方法を知っています。神は被造物である人を無条件に愛しましたが、神の聖と義を放棄することはありませんでした。聖さと義の無い愛は、神を現すものではありません。 愛のしるしとして、キリストが送られ、愛を全うするために、精神的・霊的な苦痛と物理的な犠牲が払われました(1 Peter 2:24)。キリストは世の不正と罪にチャレンジすることにより、愛を示されました。 犯罪を繰り返す家族を黙認しつづけることは、愛でしょうか?浪費癖のある配偶者の後始末を続けることは愛なのか、それとも? 愛とはただ相手が快適に過ごせるように譲歩を続けることではありません。関係性の中に見られる罪深さや不健全さを正そうとする姿勢も愛です。相手が神の喜ばれる在り方へと、自立を助けることも愛です。 聖さとは罪深い動機や行動を共にしないことです。義とは、良いことと悪いことを明らかにする決断や行動です。憐れみは、成長と成熟を促す忍耐です。愛の実践において、神の全体像である、愛・聖さ・義を示す方向に向けた決断が真の「愛」の実践です。 痛い 「変わるべきなのは、相手ではなく、自分である」という話に戻ってみましょう。厳しい戦いではあるのですが、あなたの愛、寛容さや良心、忍耐を浪費するような相手に対しては、神話のような愛ではなく、神の愛を実践する必要があります。 より高次な神の愛は、あなたが「良い人である」という名声を失わせ「冷たい、あの人はクリスチャンではない」という不名誉を受ける場合があります。 キリストが家族の繋がりを軽視していると捉えられたり(マルコ 3:21)、神を侮辱していると(マタ26:65、ヨハ15:18)言われたようにです。 あなたが非難される場合、どのような人があなたを非難しているか考えてみて下さい。その人達はあなたを本当の意味で大切にしてくれる良い人たちですか?あなたをコントロールしようとしていませんか。 神があなたの決断についてなんと言っているか考えてみて下さい。そして、良い信仰を持っている人たちに、健全な判断とは何か相談してみて下さい。 自分自身への挑戦 実は、一番の強敵は、自分の内側の声です。愛がない、クリスチャンらしくない、と言われても、本当の愛とは何かを実践する荒野に踏み出すことが出来るか。罪悪感に悩み、失敗しながらも、悪戦苦闘の先にある希望を信じるか...。 夫婦喧嘩が増え、子供を失望させることになるかも知れません。安定した生活基盤を失ったり、付き合っている相手と別れたり、昇進の道が絶たれたりするかも知れない。 愛の実践とは、自分自身との戦いです。抵抗に耐える愛の筋肉をつけることです。神は愛の結果として、人となったひとり子を失いました。しかし、神の犠牲は永遠の命に繋がりました。 私達も大切なものを失うことになるかも知れません。私たちは失いますが、鍛えられた愛はより神に似たものとなります。 あなたの愛がどのようなものであるのか、よく考え、信頼できる人から知恵をもらいましょう。愛を鍛える過程においては、理解されないこともあります。しかし、あなたの愛に対する取り組みは、神に知られています。神の導きと平安がある方向へ進んでみてくださいね。 ※出版権の関係により、無断で不特定多数の方に配布しないようお願い申し上げます。引用の際には出典、『百万人の福音 Bible & Life』いのちのことば社※月号、を明記下さい。
『 百万人の福音 BIBLE&LIFE』「神のかたち」で生きる霊性入門 6月ー我と汝
いのちのことば社『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』にて2023年1月から1年間連載を担当しております。 連載タイトルは、「神のかたち」で生きる霊性入門いのちのことば社様から許可をいただきまして掲載いたします。『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』は様々な執筆者の方々の有益な記事や情報が満載です。最新号にてぜひお買い求めください! ※掲載された記事については、PDFの記事を御覧ください。下記は編集前の原文です。紙面の都合上省略された文章が原文には含まれています。編集者の方の尽力によって読みやすくなった文章、また原文のままの文章もどちらも、楽しんで頂けるかと思い、両方を残してあります。 我と汝 「神のかたち」を自分自身の生活の中に形作ってゆく、というテーマでお届けしています。 「我と汝」 20世紀はじめ、ヨーロッパに世界大戦の惨禍が吹き荒れる中、ユダヤ教の神学者マーティン・ブーバーが『我と汝(原著Ich und Du、英訳I and Thou)』という示唆に富んだ本を記しました。 ブーバーはこの本で、人の関係性は2つに分けられる、それは「私と汝(Thau)」か「私とそれ(It)」であると、論じています。 「我-なんじ」の関係性は、他者の存在を尊重し、対話や直接的な関係を通じて相手と真のつながりを持とうとする関わり方です。相手に対する愛情や敬意、信頼などが「我-なんじ」の関係性を生み出す血液です。人だけではなく、あらゆる対象と「私-なんじ」の繋がりを築くことができるとされています。 一方、「私-それ」の関係では、世界は自身の欲求や目的を達成するための手段にすぎません。「私」にのみ関心が向けられています。他者は存在していますが、真の意味では存在せず、「私」と「それ」、物体のような関係です。 世界は、私を幸福にしてくれるため、私の目的を達成させてくれるための手段です。 「私」と「それ」 人を条件で見るということは、私達の社会に深く浸透している価値観です。 「この人は(ものは)私をどれだけ幸せにしてくれるか」 「私の願いを叶えてくれるか」というフィルターを通して、世界を見つめます。 同じようなことが起きます。自分の配偶者、子供、親に対して。友人知人、同僚、従業員、部下、生徒、ご近所さん。 例えば、ピーター・スキャゼロは著書Emotionally Healthy Spirituarityの中で「私とそれ」は次のような関係だと言っています。 Scazzero, Peter. Emotionally Healthy Spirituality (p. 173). Zondervan. Kindle Edition. 第7章、I-It relationship 社会に生きるということは、私達が「それ」として扱われる過程を通過することかも知れません。学歴、容姿、経済力、コミュニケーション能力でラベル付けが始まります。受験戦争、就職活動、数多のマウンティング。インターネットや宣伝広告では、他者を商品のように見つめ、消費して、生きている。 「なんじ」のあなた イエス・キリストは「それ」として扱われている私達に、「なんじ」と呼びかけます。「なんじ」は、私達が根本的にどのような存在なのか、神は私たちをどのように創造したのか、思い出させる語りかけです。 キリストは、悩む人、苦しむ人の声を聞き、立ち止まり、ひざをかがめ、彼らの表情をご覧になった。彼らに触れ、会話し、癒やし、立ち上がらせ...。キリストと虐げられている人たちの物語は、一人ひとりが、敬意を払われるべき存在だという、神の愛を示すものです。 キリストのいのちが私達の中に生きるということは、私達もまた、キリストのように世界に「なんじ」と呼びかけることです。 「なんじ」を認めるとは、言い換えると他者を他者として、認める、尊敬するということとも言えるでしょう。キリスト教的視点で考えると、神が「私」を大切にしてくれるように、他者を理解し、認識する。他者も、神にとっての「なんじ」だからです。 他者は自分の世界の延長線ではなく、自分とは違う意思と願いを持った存在として、独自性と分離を尊重することです。 抽象的な話が続いたので具体的に考えてみましょう。 「それ」から「なんじ」へ 「私とそれ」は私達の価値観に深く染み込んでいます。例えば次の通りです。 「我となんじ」の関係を築いていくために、関わり方をどのように変えることが出来るか、考えてみましょう。例えば... 実際生活で「われ-なんじ」を実行することは、簡単なことではありません。社会は、「われ-なんじ」のために形成されてはいないからです。 […]
「神のかたち」で生きる霊性入門 5月ー自分の頭で考えなさいー師匠からの教え
いのちのことば社『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』にて2023年1月から1年間連載を担当しております。 連載タイトルは、「神のかたち」で生きる霊性入門いのちのことば社様から許可をいただきまして掲載いたします。『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』は様々な執筆者の方々の有益な記事や情報が満載です。最新号にてぜひお買い求めください! ※掲載された記事については、PDFの記事を御覧ください。下記は編集前の原文です。紙面の都合上省略された文章が原文には含まれています。編集者の方の尽力によって読みやすくなった文章、また原文のままの文章もどちらも、楽しんで頂けるかと思い、両方を残してあります。 自分の頭で考えなさいー師匠からの教え 「神のかたち」を自分自身の生活の中に形作ってゆく、というテーマでお届けしています。 今日は、私の信仰の師匠、國光幾代子先生から頂いた信仰の知恵をご紹介します。 國光先生(故人)は私が卒業したインマヌエル聖宣神学校の女子寮監を長年務め、メソジスト教会の牧師として数多くの牧師、献身者、教会員、求道者の指導と育成をされました。 私が先生に出会ったとき、先生は88歳。私は当時23歳で、信仰をもって3年目でした。先生が亡くなるまでの10年間、私は先生から多くの霊的な指導、遺産をいただきました。 これからご紹介する幾つかの言葉は、きっと、皆さんの信仰生活を形作る手がかりになると信じています。 「自分の頭で考えなさい」 「あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。」ピリ 1:9-10 私は大学卒業後、すぐに神学校に入学しました。非キリスト教環境で二十歳まで育った私にとって、キリスト教世界の考え方、文化は外国と同じくらい隔たりを感じる世界でした。キリスト教会、神学校とはいえ、聖書的なもの、文化的なもの、人間的なもの、罪の影響を受けたものも混ざっているという考えに至るには、まだ時間が必要でした。 私はよく、先生のところで泣きながら愚痴を言っていました。人生経験も信仰年限も浅い私にとって、納得できない神学校の習慣があり、また人間関係にも良心が痛むことがあり、うつ病寸前でした。 「自分の頭で考えなさい」と先生は私に言いました。そして幾つかの聖書箇所を開いて下さいました(エペ5:10、1テサ5:21、ピリ1:9-10)。 「自分の頭で考えなさい」という言葉は衝撃的でした。なぜなら、それまでずっと信仰者の模範とは、「従うこと」だと教えられてきたからです。自分の考えや判断を持て、という指導は受けたことがありませんでした。 神は私たちに自分自身の目で、感性で、信仰で良いものと悪いものを判断するように、創造されました。生きた信仰をもつとは、頭を使うことであり、時に痛み、間違いも発生します。完璧ではないかもしれない。 しかし、私達が悩んでいるということは、忠実に神に与えられた可能性を生きていることだと思うのです。 人としての全体性として、有機的な、命が通っている存在として、神の被造物として完成された姿に近いと、私は思うのです。 立場や学歴、信仰年限は関係ありません。神があなたになんと語り掛けているのか、神があなたに与えた良心と、生きている聖霊を信じ、自分の感性に自信を持ち、自分の頭で考えてみてください。 信仰の穴開きごみ袋 色々な事を言われて大変だった時がありました。先生は次のように言われました。「信仰のごみ袋を持ちなさい。それには、穴が開いていなくてはいけません。」 「穴ですか?」 「そうです。穴空きゴミ袋です。色々なことを言う人がいるでしょう。そうしたら、「はい、承りました」と言って、一度袋に入れます。袋には穴が開いていますから、言葉は穴から落ちてどこかに行きます。それでいいのです。」「それでいいのですか、先生?」 「相手は聞いているという姿勢で満足しますから、問題ありません。」 真面目に聞くばかりが能ではないと、学んだ瞬間でした。 「ためていたら、腐ります」 愚痴ばかり言っていた時のこと。「いつも愚痴ばかり言って、すみません。」「いいんです。きちんと出すほうが、良いのです。臭いものをなかったようにして、蓋をすると、もっと腐って悪い臭いを出します。」 隠すよりも、正直であるほうが良い。自分自身の心の声をきちんと理解する大切さを学びました。 「第一直感を大切に」 先生は判断が明確で早い方でした。判断基準を聞いたときに、教えてくださったこと。 「第一直感を大切にしなさい。」「聖書とか、信仰とかではなく?」「もちろん、大切です。しかし、迷ったら自分の直感を大切にしなさい。何かを教えているのです。」 聖霊が働いて教えてくれる、自分の感性を大切にしなさい、という意味なのだと思います。時間の猶予が無かったり、判断に迷う場合に役に立つ基準です。神によって培われている自分自身の感性と選択に自信を持ちましょう。 「すべて自分の考えだと思う必要はありません」 悪い考えや、誘惑が心に浮かぶときの対処の仕方。 「どうして自分はこんなことを考えるのだろうかとか、こんなに汚いことを思っているのか、と悩む必要はありません。サタンの投げる言葉にいちいち反応しなくてもよい。「サタンよ、下がれ」と言って、相手にしない。それだけで良いのです。そのたびに御言葉を心で唱えなさい(1ヨハネ 1: 7)。」 「授業料だと思いなさい」 自分の不注意で、車を大破させて経済的、精神的な痛手を負ったことがありました。とても落ち込んでいたときに、教えていただいたこと。「授業料だと思いなさい。」 マイナスでしかない、経済、時間、精神、肉体的ダメージを、前向きな視点に変えてくれた一言でした。皆さんの失敗も、「授業料」になる日が来ます。 「謙遜でありなさい」 神学校を卒業したとき、先生から頂いた言葉。「神は傲慢な器は用いられません。謙遜でありなさい。」 先生の教えはユーモアがあり、実践的でした。國光先生が、さらに前の先生から教えてもらった、という教えもあります。軍国主義と二度の世界大戦を生き抜いてきた世代です。 クリスチャンは、ただ真面目で善良、騙されやすい羊ではありません。賢く逞しく、ユーモアを持って、魅力的にキリストの姿を表してください。 今日ご紹介した知恵が、皆様の中に魅力的なキリストの姿を形作る手がかりとなれば、幸いです。 ※出版権の関係により、無断で不特定多数の方に配布しないようお願い申し上げます。引用の際には出典、『百万人の福音 […]
『 百万人の福音 BIBLE&LIFE』「神のかたち」で生きる霊性入門 4月ー「察して」をやめるー伝えることに責任を持つ
いのちのことば社『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』にて2023年1月から1年間連載を担当しております。 連載タイトルは、「神のかたち」で生きる霊性入門いのちのことば社様から許可をいただきまして掲載いたします。『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』は様々な執筆者の方々の有益な記事や情報が満載です。最新号にてぜひお買い求めください! ※掲載された記事については、PDFの記事を御覧ください。下記は編集前の原文です。紙面の都合上省略された文章が原文には含まれています。編集者の方の尽力によって読みやすくなった文章、また原文のままの文章もどちらも、楽しんで頂けるかと思い、両方を残してあります。 「察して」をやめるー伝えることに責任を持つ 「神のかたち」を自分自身の生活の中に形作ってゆく、というテーマでお届けしています。今回は自分自身を表現することの大切さについて、一緒に考えてみましょう。 長年家族、夫婦の問題を扱っているプリペアー・エンリッチJapanの西岡まり子先生が次のように仰っていました。 「コミュニケーションはキャッチボールです。相手が受け取ることが出来る球を投げましょう。ドッジボールではいけません。」 なるほど、と思いました。夫婦関係に限らず、私達のコミュニケーションは時に、相手とのやり取りを通して結論に至ろうとする対話ではなく、どちらが正しいか、どちらが優位かを示そうとする「対決」になっています。 あなたの意思、そして願いはあなたの形です。自分自身の人格と霊性を確認する過程です。自分の意思を伝えることの価値と責任、伝える方法について、2つのことをご紹介します。 1. 意思表示の大切さについて「露呈(開示)の法則」ー『境界線』から 『境界線』ヘンリークラウド/ジョン・タウンゼント著に「境界線の十の法則」という章があります(5章)。 法則10:「露呈(開示)の法則」 「露呈の法則とは、あなたの境界線は他者から見え、関係の中で彼らに言葉で伝えられるべきであるということです。...私たちは、恐れのために境界線の問題を、暗闇の中に隠してしまうことがあります。それは、サタンに攻撃の機会を与えます。 ...本当の愛への道は、境界線をオープンに伝えることです。」 私達の願いは、私が誰で、何者であるかということを示しています。 察してください、汲み取ってください、という精神は日本文化の中では多く期待されますが、これは解決するべき方向性を混乱させます。まず、何を伝えたいのか曖昧であるため、誤解が起きるということ。もう一つは、本人の問題が見過ごされるということが挙げられます。 例を挙げましょう。「(夫婦関係で)あなたのパートナーにどのようなことを期待しますか?」と質問すると、このような答えが返ってきます。「そうですね、私のことを不安にせず、思っていることを察してくれて、大切にしてくれることです。」「大切にしてくれる、とは?」「私が必要と思った時に、メッセージをくれて、私の願う答え方をしてくれる...。」「可能だと思いますか?」「いいえ。」 願いが思った通りにならないために、相談に来ていることは明確なのですが、このやり取りをすることは大切です。願いを言葉にすることで、自分自身が見えるのです。 現実的な願いか、謙遜さがあるか、相手のことを配慮しているか、願いが独りよがりになっていないか、自分に求められたら出来ないことを、相手に一方的に願っていないか。 察してくれない環境や誰かについて不満を持っているとしたら、その責任のボールは、問題を明確に伝えるまで、当人の側にあります(高齢者や幼児、精神や身体にハンディキャップがあり、意思表示の能力が十分でない場合は別です)。 伝えることで状態が悪化する方、また悪化する可能性がある方にとっては、ご自身がいらっしゃる環境や関係性について考える機会になります。状況と自分自身の願いが相容れない状況にあるとき、どのような人たちに囲まれ、どのように生きたいのか、考えてみてください。 『境界線』は、20年程前に書かれた本ですが、信仰の面でも非常に良い指針が記されている名著ですので、ぜひ一度ご覧になってください。 2.アサーティブネスー健全な意思表示の方法 伝え方がわからない、という声をよく耳にします。なるほど、伝え方が分からず、ボールを持ったままにしたり、投げたかと思えばドッジボール。分かりにくい伝え方、変化球ばかり投げる人もいます。 アサーティブネスは、自分と相手の意見を尊重しながらコミュニケーションを取る方法です。適切な言葉、言い方で自分の意見を表現します。 「愛は礼儀に反せず」(Iコリ13:5)と聖書にありますが、まさに、礼儀を実践するためのコミュニケーション方法です。次のようなことを心がけてみてください。 ・アイ(I,私)メッセージを使う。 「私」を主語にして話してみましょう。「あなたは~してくれない」「みんながこう言っている」という言い方は、伝え方が曲がります。伝えたい事があるのは「私」です。「私」の願いとして、なにをして欲しいのか明確に意見を伝える必要があります。 例えば次のとおりです。「私は~してもらえると、嬉しいです」「私は~されると悲しく感じます。違う方法、言い方をお願いできますか。」 ・建設的、肯定的な言葉を用いる。 アサーティブな会話では、自分の意見を相手が受け取りやすいように伝えます。そして相手の意見も丁寧に扱います。理解できない、意見が違うからと言って相手を攻撃したり、否定的な態度をとらないように気をつけましょう。 ・相手に敬意を払い、丁寧にお願いする。 協力や信頼関係が必要な関係では、相手の意見やペースを尊重することが長期的により深く強い関係を生み出します。 意見が違う場合、同意するかしないか、それぞれに選択の自由があります。私達が納得できれば同意すればよいのであり、出来なければ同意する必要はありません。しかし敬意を払う必要はあります。敬意を払う、とは、相手の意見を尊重し、理解しようとする姿勢です。 良いか悪いか、正しいか正しくないか、と仕分けされる世界観から離れ、異なる考え方、感じ方があることを理解する空間、それぞれの考えと生き方に息をする空間があること、それが互いの意見を尊重するということです。 アサーティブネスについては行動療法やビジネスの世界で多くの情報やトレーニングがありますので、興味がある方はぜひ調べてみてください。 あなたの願い、選択、意思はあなたに与えられた、神のかたちの一部です。神の光の中で自分の意思と願いの中身を点検すること、そして周囲がキリストを感じるように表現すること。 簡単ではありませんよね。しかし、取り組む価値のあることです。 あなたの意思が神のかたちとなって示されるとき、それは世の光、周りの方々への祝福となるでしょう。 ※出版権の関係により、無断で不特定多数の方に配布しないようお願い申し上げます。引用の際には出典、『百万人の福音 Bible & Life』いのちのことば社※月号、を明記下さい。
『 百万人の福音 BIBLE&LIFE』「神のかたち」で生きる霊性入門 3月ーあなたの「かたち」を考えるー感情を見つめる
いのちのことば社『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』にて2023年1月から1年間連載を担当しております。 連載タイトルは、「神のかたち」で生きる霊性入門いのちのことば社様から許可をいただきまして掲載いたします。 『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』は様々な執筆者の方々の有益な記事や情報が満載です。最新号にてぜひお買い求めください! ※掲載された記事については、PDFの記事を御覧ください。下記は編集前の原文です。紙面の都合上省略された文章が原文には含まれています。編集者の方の尽力によって読みやすくなった文章、また原文のままの文章もどちらも、楽しんで頂けるかと思い、両方を残してあります。 あなたの「かたち」を考えるー感情を見つめる 「神のかたち」を自分自身の生活の中に形作ってゆく、というテーマでお届けしています。 今日はあなた自身が、どこに向かいたいのか、心の中にあるもやもやとしたものを、どのように取り扱い、自分自身で納得できるところに進んでいくか、一緒に考えてみましょう。 信仰者の方とお話すると、面白い共通点があります。話の核心に辿り着くまでに時間がかかるのです。「あなたは、どう感じていますか?」と聞くと、別の話を始めます。問題に思っている教会員や、家族の話、そして、不満を持っている自分を恥じるかのように、聖書の話。 「〇〇がこうなってもらえたら、いいなと思っています。聖書はこう言ってますよね。だから、こう考えるべきだと思っています…。」 「聖書はそう言ってますね。あなたはどう思っていますか?聖書を脇に置いてみましょうか。あなたがどう感じているか、聞かせて下さい。」 すると、話している方は急に静かになります。上を向いたり、下を向いたり、ため息をついて眉間にシワを寄せ、一生懸命考えます。「私?私は何をしたいのだろう?私が感じていることって何?」という具合です。 クリスチャンとして生きる時間が増えると、ますます分からなくなる質問なのかもしれません。私は一体誰で、何を考えていて、何がしたいのか…。不思議ですね。 私がなにをしたいか、ということよりも、目の前の問題を解決することに精一杯なのかも知れません。 教会では、自分を捨て、自分を犠牲にし、教会と伝道に従事することが模範であると教えられる。家族から、社会からは「~らしくあれ」と求められる。 そして、いつの間にか私が何を感じているのか、なにをしたいのか、考えることも恐ろしくなってしまう。聖書や世間が自分に期待している役割以外、「自分」には生きる場所も、息をする場所も無い。「透明人間」という古い映画のように、役割という包帯が剥がれたら、その下に見える顔がない。 私の輪郭 結婚関係のクラスで、カウンセリングの教授が模範演技を見せてくれました。10分のロールプレイの中で、質問の回数は3回。それも、同じ質問をしました。「あなたはどう感じていますか?」 これを読んでいらっしゃるあなたにも、同じ質問をしましょう。 「いまあなたの心の中に抱えている心配や、不安。それをよく見つめてみて下さい。あなたは、何を感じますか?」 痛くて辛い質問かもしれません。この質問の意義は、感情を通して、私達自身に触れるというところにあります。包帯の下に何があるのか、あなたのかたちを確認する手がかりです。 感情ー喜び、怒り、悲しみ、恐れ、驚き、不快、等を通して、私たちは、よく分からなくなってしまった、自分自身の声が聞こえるようになります。 感情がなぜ大切なのか、私達の霊性とどのように関わっているのか。次の言葉はとても良く表しています。 「感情的に未熟なまま、精神的に成熟することはできません。感情を無視した生活をしていると、クリスチャンとしての規律や活動、行動をしていても、過去に深く根付いた行動パターンが、キリストにあって成熟した本物の人生を妨げることになってしまいます。…その結果、私たちは精神的に幼いままで、キリストにあって精神的、感情的に成熟した大人に成長することができない危険性があります。 」Scazzero, P. (2019). In Emotionally healthy spirituality (p. 9). Duranno Press. 感情についてお話すると、次のような質問を受けます。 「感情に従うことは良いことなのでしょうか?感情は当てにならない、感情ではなく、意思を大切にすることを教えられてきましたが。」 「ネガティブな感情は忘れて前に進むように教えられてきました。ネガティブな感情に向き合うことは良いことなのでしょうか?」 感情を大切にする、とは感情的な人間になれと言っているのではありません。感情があなたの主人になるのではなく、あなたが感情の主人になるように、ということです。 多くの人が自分が感じていることが分からず、うつになります。もしくは、感情が赴くままに、不機嫌を周りに撒き散らします。そうすることが当然だと思っているのです。 感情の主人になるためには、あなたの心のなかで何が起きているのか、理解できなければなりません。感情は、心のシグナルです。自分をよく理解し、表情を持ったあなたが、イエス・キリストと出会うのです。どこに向かうべきなのか、キリストと語り合う、あなた自身が声を取り戻す必要があります。 ネガティブな感情はどのように取り扱えばよいのか。私はよくピアノの鍵盤に例えます。どの音階でも、一つの鍵盤の音が出なければ、演奏できる曲が限られるでしょう。もしくは、歪な曲が出来上がるでしょう。 多くの鍵盤の音がでるからこそ、調和のある、より完成された曲が奏でられる。そんな風に、あなたのネガティブな感情も、あなたの人格を調和させ、完成させる力を持っている。それを、制する力を身に着けていくことが成長、あなたの中に、神のかたちが形作られる過程です。 あなたの心の中のもやもやは、あなたを豊かにする力を持っています。扱いにくい雲かも知れませんが、もやもやが何を言っているのか、耳を済ませてみて下さい。 もやもやと向き合っても、気持ちが落ち込むだけで、解決が難しいという場合は、積極的に周りにいる霊的な指導をくださる方に指導を仰いで下さい。あなたが、安心して話せる人が良いです。 今回は、自分の心を理解する大切さと手がかりについてお話しました。次回は、自分自身を表現することの大切さについて、一緒に考えてみましょう。 ※出版権の関係により、無断で不特定多数の方に配布しないようお願い申し上げます。引用の際には出典、『百万人の福音 Bible […]










