「神のかたち」で生きる霊性入門 12月ー世界に拒絶されている

いのちのことば社『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』にて2023年1月から1年間連載を担当しました。

連載タイトルは、「神のかたち」で生きる霊性入門
いのちのことば社様から許可をいただきまして掲載いたします。『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』は様々な執筆者の方々の有益な記事や情報が満載です。最新号にてぜひお買い求めください!


※掲載された記事については、PDFの記事を御覧ください。下記は編集前の原文です。紙面の都合上省略された文章が原文には含まれています。編集者の方の尽力によって読みやすくなった文章、また原文のままの文章もどちらも、楽しんで頂けるかと思い、両方を残してあります。


世界に拒絶されている

この1年間「神のかたち」を自分自身の生き方に形作る、というテーマで執筆させていただいたことを心から感謝しています。シリーズの最後に、どのような内容が良いだろうかと思い巡らせながら、今回のテーマを選びました。皆さんにとって、なにか前進するきっかけになりますように。

もやもや

数ヶ月前から、目の前に影のようなものがちらつくようになりました。飛蚊症です。知り合いの先生に相談したところ、加齢からくるもので、じきに慣れる。気にしなくてよい、と言われました。そんな年齢になったのか、と気にするところはありますが、慣れるよりほかありません。

今年9月、私はクリスマスカードを注文するため、いくつかの印刷会社のホームページを開いていました。クリスマスの挨拶は、私のミッション活動の報告を兼ねており、数が多いため印刷会社に注文しています。

印刷会社が提示するテンプレートをスクロールするたびに、心の底からもやもやとした何かが湧き上がってきました。まるで視界の端に飛び込んでくる飛蚊症の影のようです。視界の中の黒いゴミの影は目で追うと、まさに飛び回る蚊のようで、イライラします。同じように、心の中のもやもやも、沈殿していた池の底の泥が湧き上がるような、非常に不愉快な感覚でした。

世界は私の場所か

この泥は、ずっと私の人生の中に沈殿していました。何回か、霊的同伴者に相談した後、その泥の名前は怒りであり、「拒絶」である、ということが分かりました。

クリスマスカードの見本には、幸せそうな家族が並んでいます。美しい家、豊かな生活、愛情深い両親、笑顔の子供、旅行、贈り物…「幸せ」の展示場。

そして、私はどれも持っていませんでした。自分の現実と、テレビで見る普通の家族と生活、どちらが尋常ではないのか、子供の私には分かりませんでした。確かなことは、正解を知ったとしても、自分の苦しみが増すということでした。

「何に怒っていますか?」と霊的同伴者が尋ねたので、私はしばらく考えて「世界に…全てに」と答えました。

招かれざる者

有名なクリスチャン作家であるLysa Terkeurstは「拒絶」をテーマに "Uninvited(招かれざる者)"という本を記しています。彼女は人生を通じて、彼女を恐れさせ、凍りつかせてきた心の感覚は「拒絶」であると綴っています。「拒絶」は彼女がまだ子供の頃に父親が、家を去っていったことから始まる感覚でした。

「私の顔も見ずに荷物をまとめる父を見て、私の安心感とアイデンティティを支えていた最後の一片が割れた。…拒絶感は私の心の奥底に沈み込んだ。そして、私はある結論に達した。「(中略)お父さんにとって私は何の価値もない」。さらに、次のような結論に結びついた。「私は神にとって何の価値もないのではないか」これらの感覚が、私の新しいアイデンティティとなったのです。」引用"Uninvited"Ch.3

TerKeurst, L. (2016). Ch.3 There’s a Lady at the Gym Who Hates Me. In Uninvited: Living loved when you feel less than, left out, and lonely. essay, Nelson Books, an imprint of Thomas Nelson. 

私の霊的同伴者は「この世界は完璧ではない。世界を赦さなければいけません。」と教えてくれた。

不平等

私のなかのもやもやは、世界から拒絶されている、という感覚だった。借金取りが押しかけ、料金滞納のため、ライフラインまで止められていた生活。この世の中を困らせている存在だ、というメッセージを受け取った。両親からも社会からも私は歓迎されている存在ではなかった。世界は私の敵であり、私も世界を拒絶して生きることにした。

キリストの事を考えてみた。イエスはどんなふうに、世界を見ていたのだろう。

生まれる前に、ヨセフがマリヤの元を去ろうとしたことを、両親からの歓迎だと受け取っただろうか。貧しい夫婦のもとに生まれ、黄金のベットではなくて、藁のベットに寝かされたときに、未来は開けていると感じただろうか。

エリート層の若者たちが神殿で教育を受けているときに、水くみをしながら、彼らと自分は同じスタートラインに立っていると思っただろうか。

この世界はユダヤ地方の貧しい一人の少年にとって、愛と受容を感じる場所ではなかっただろう。最後に飼い葉桶が十字架になった。キリストは招かれざる者だった。イエスは自分が世界に拒絶されていることを知っていた(ヨハネ15:18, 16:33 18:36)。

キリストは最後に人々の赦しを願い、世を去った(ルカ23:34)。拒絶に対し憐れみの心を持った。天の父に訴えた。それが彼の、拒絶への姿勢だった。

拒絶を超えて

これを書いた理由は、多くの人が、「拒絶」の経験によって、息を止められそうになっていると、思ったからです。先述のLysaは拒絶を経験するときに思い出すべきことの一つとして、一度の失敗は、将来の失敗を決定的にするものではない、と述べています

「傷ついたことを認めるのはいいことですが、永久的な障害にしてはいけません。」前出, Ch.11

意識的にも、無意識的にも、私達は拒絶を深く恐れて生きています。拒絶を回避する努力は、死にものぐるいであるとも言えるほどです。

◯◯(子供、男、女etc)らしいのか、受験、昇進、競争、結婚、独身、経済状況、子供の出来、教会での立場、縄張り争い…。私は愛されているのか、必要とされているのか。受け入れられているのか、ここに居ていいのか?

私のように、拒絶に対する極端な反応を改める必要があるのかも知れません。あなたを拒絶した相手が完全ではないということを、赦して前に進むことが出来ます。

新しい年が、皆様にとりまして、益々恵みに溢れ、神の栄光を照り輝かせる年となりますように。祝福を心からお祈りしています。




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