「神のかたち」で生きる霊性入門 9月ー安息日の本質

いのちのことば社『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』にて2023年1月から1年間連載を担当しております。

連載タイトルは、「神のかたち」で生きる霊性入門
いのちのことば社様から許可をいただきまして掲載いたします。『 月刊 百万人の福音 BIBLE&LIFE 』は様々な執筆者の方々の有益な記事や情報が満載です。最新号にてぜひお買い求めください!


※掲載された記事については、PDFの記事を御覧ください。下記は編集前の原文です。紙面の都合上省略された文章が原文には含まれています。編集者の方の尽力によって読みやすくなった文章、また原文のままの文章もどちらも、楽しんで頂けるかと思い、両方を残してあります。


安息日の本質

中庭の意味

米国カリフォルニア州、西海岸沿線にはカリフォルニアミッションという21の教会遺跡群があります。18世紀、カトリックのフランシス会が、先住民族に対する支配と布教活動のための拠点として建設しました。

これまで10箇所ほどミッション教会を訪ねました。そしてある共通点に気がつきました。大小の差はありますが、どれも同じような構造をしています。

中央の四角形の中庭を囲むように、礼拝堂、司祭の宿舎、兵士や使用人の居住区、その他の付属の部屋が配置されています。図参照。

Old Mission Santa Barbara in 1792
SBTHP L history. SBTHP. (n.d.). https://www.sbthp.org/history 

中央は美しく手入れされている庭園です。こんな贅沢なスペースをよく真ん中に添えたものだと、当初思いました。私なら、中庭を畑か作業場にします。

中庭には意味があるのだそうです。静寂、瞑想、祈り、そしてコミュニティの絆を促進する場所として、修道会を中心とした共同体全体の活動に不可欠な場所なのだと。中庭は修道士たちにとって、神と語り、神を想うための重要なスペースです。

安息日の本質

イエス・キリストは安息日に病人を癒したり(ルカ13:10-17、マタイ12:9-14)、麦の穂を摘んで食べている弟子の行動を制限しなかったため非難されたり(マタイ12:1-2)と、何度もユダヤ人との間で安息日について、議論を巻き起こしています。当時の安息日の規定に敢えて挑戦をしているかのようです。後世の信仰者たちにも、安息日について、よく考えるようにというメッセージなのではないでしょうか。

情緒的に健全な霊性』Scazzero, P. (2019). In Emotionally healthy spirituality . Duranno Press. (邦訳未出版)という本があります。私自身の安息日の実践を考えさせてくれた良書です。この本の6章では、安息日の4つの原則として、「1.止まること、2.休息すること、3.喜ぶこと、4.考えること」が挙げられています。

1.止まること

ある牧師はレビ記の安息年の記述(レビ25:1-4)から「休むためには信仰が必要だ。」と言いました。止まるとは、世界の主権を握っているのは神であると認めることです。自分には限界があることを謙虚に認め、神の力を信頼することが必要です。

2.休息すること

安息日はイスラエルの民がエジプトを出て、神の民として選ばれたことの証明です(出エ20:8-11)。神を信じるものへの憐れみと安らぎを、私たちが感じ、受け取る日です。先程ご紹介した本の中では、休息を取るために止めるべきものとして次のようなものが挙げられます。

ー肉体的疲労・焦燥感・マルチタスキング・競争・心配・意思決定・用事を済ませること・会話・テクノロジー(携帯電話、テレビ、パソコン、ソーシャル・メディア等)

これらのうちのいくつか、可能な方はすべて、安息日の間止めてみて下さい。

3.喜ぶこと

神は創造の仕事を終えた後、「それは非常によかった」と宣言しました(創世記1:31)。安息日は、ご自身のわざを喜ばれた神の心を生きる日です。神が創造された自然を見たり、体を動かしたり、自分の想像力を働かせることで構いません。「これは非常に素晴らしい!」と感嘆し、神を賛美し、喜びが生まれるような日にしてみて下さい。

4.考えること

Contemplate(熟考する、観想する)という言葉があります。心を沈めて、深く思索するという意味です。神について、そして私たちの魂について思い巡らし、霊的な焦点を合わせることが安息日の本質です。

安息日の心

ここまで書くと、そんなこと到底私の生活では出来ない、と考える方がいらっしゃるでしょう。日本の労働・生活環境では本当に難しいです。

4人お子さんがいらっしゃる方が、こう教えてくれました。「ある曜日の午前中の数時間と、別の曜日の午後の数時間。私はこの時間を安息日として取り分けている」と。そのような考え方は画期的でした。

安息日が一週間の内のどの日なのか、何時から何時までなのか、どれくらいの長さなのか、文化や時代によって、様々な考え方があります。私は特定の時間や形式で定義されるものではないと考えます。安息日の本質を生きるように、自分の生活で時間を取り分けること、実践する意思を持つことが大切です。

あなたの安息日

私の取り組みを一例としてご紹介します。安息日の本質に取り組み始めた当初、仕事と伝道を抜きにすれば、私自身が誰なのかもわからないということに驚愕しました。義務感から働いており、何を喜びとしているのか、分かりませんでした。居心地の悪い、苦痛な時間を過ごしながら、終わらせたい仕事や用事が沢山あるのに、と落ち着きませんでした。

やがて日曜日を安息日と考えることはやめました。神を愛する心の表れとして、礼拝に行きます。でも休めませんし、止まることも出来ないからです。今は月曜日を安息日とし、自然を喜び、神との関係や思索を楽しむようにしています。

安息日の本質を生きることは、私たち人間にとって簡単なことではありません。自然に発生することでもありません。奴隷的な精神は私たちを安息から遠ざけます。あなた自身の安息日に本質を取り入れ、神と過ごす時間の豊かさを楽しんでみて下さい。




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